カルマの消化
我々の人生に日々起きる現象のすべては、二つの面を持つといえます。
一つは、すべては単なる自分が過去になした行為がカルマの果報として返ってきているにすぎない。
二つ目は、すべては神の愛。
この前者に力点を置いた考え方がカルマ・ヨーガであり、後者に力点を置いたのがバクティ・ヨーガです。
そしてヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」では、このカルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガの教えが、美しくつづられています。
この二つの考えはどちらも真実であり、同時に存在しえる真実です。
そしてカルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガでは、そういう意味であらゆる良い現象・悪い現象をそのまま受け入れ、十分に味わい、頓着せず、受け流すのです。
こうすることによってのみ、過去のカルマは消えます。そこで心を動かすことによって、また新たなカルマが発生するからです。
また、こうすることによって、神の愛を十分に受けることが出来ます。なぜなら神はこの苦界における様々な経験を与えることで、我々を成長させようという完璧なプログラムを与えてくださっているからです。
よって、すべてを任せ、すべてを恐れず、受け流す。
もちろんこれは、単に受動的に消極的に生きろということを意味しません。何か夢があるとか、人生に目的があるなら、そのために努力すべきです。あるいは日々、やるべきことに集中すべきです。
しかしその中で生じる様々な現象にとらわれるなということなんですね。なぜなら、現象は生じなきゃならないんです。カルマ・ヨーガ的にいうならば、カルマのストックがあればそれは必ず生じなければならないし、ないものは決して生じません。それだけのことです。それが生じるということは、カルマのストックが消化されているということです。そしてそのすべての動きが神の愛なので、苦しみにも喜びにも感謝しつつ、歓喜をもって生きるのです。
できればそれだけではなく、人生にドンと一本の芯を持つのがいいですね。たとえば「私の人生は他者を救うためにある。そのために自分の修行を進めるためにある」--これは最高の、菩薩としての芯ですね。
ここまでまだ考えられない人も、自分なりの何か芯があるのはよいでしょう。それを一本背中に入れつつ、あとはすべて喜びをもって受けて立ち、笑って受け流すのです。
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