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解説「菩薩の生き方」第二十五回(6)

 はい。「そして何をするにも、常に覚醒した意識を保ちつつ行なう」と。ボーッとしないと。
 たださ、もちろん、ラーマクリシュナみたいに神に没入してボーッとする――これはオッケーです。しかしそうじゃなくて、タマスでボーッとしてると。これは駄目ですよね。だからこの辺は実際はいろんなパターンがあるわけだけど、ここで言ってるのは、つまり、覚醒した意識、つまり常にサットヴァのクリアな意識を持ち続けると。この場合は、そうだな、まあ例えば武道の世界とか、あるいはスポーツとかもそうかもしれないけど、それともちょっと近いわけだけど。つまり、心がほんとに集中した、あるいはちょっとある種の――そうだね、集中のあるラインを超えた状態ね。つまり一切にもう心が行き渡ってる状態。この辺はちょっと微妙な感じなんだけど、そうですね、クンダリニーヨーガとかの修行でもだんだんそうなっていきます。だんだんそうなっていくっていうのは、非常に、一切に心が行き渡った状態になる。これはだから一つのマインドフルネスだね。最近流行りのマインドフルネスっていう言葉があるけども。自然に――このタイプのマインドフルネスは、わたしの経験から言うと、当然、そうですね、実際にはクンダリニーヨーガ、つまり気道の浄化とエネルギーの上昇が不可欠です。そうじゃないと多分そうならない。ただ真似事になるでしょう。つまりエネルギーがグーッと上がって、気道が浄化されまくってると、まさに、マインドフルネスっていうか、まさに一切に気が、あるいは心が行き渡った感じの状態になる。
 これが一つの――だから例えば、ね、よく名前が出てくるチベットのチョギャム・トゥルンパとかが――あの人は日本には多分来たことないと思うんだけど、日本の茶道とか華道とかが非常に好きで、免状とか持ってるんだね。免状っていうんだっけ? つまり師範のようなそういうのを持ってると。つまり、華道とか茶道とかの――ああいうのはだいたい昔、禅と結び付いて発展していったわけだけど、あれも別に、なんていうかな、決められたフォームをひたすらやるんじゃなくて、実際目指してるところは当然、その意味でのマインドフルネスなんだね。つまり完全に覚醒した意識で、一切に心が行き渡った意識で、例えば花を生けると。つまりボーッとして明日のことを考えながら生けるんじゃなくて、完全に行き渡った意識で花を生けると。で、花を生けるっていうことは、別に花を生けることが特別なんじゃないよ。それはただそこだけを取り出してるだけで。だから茶道の場合はお茶ですよね。お茶を入れる。つまり普通の人も毎日お茶を飲んでる。でもボーッとして飲んでる。あるいは別のことをいつも考えながら飲んでると。じゃなくて、なんていうかな――つまり言いたいのはさ、お茶を飲むときに「お茶飲むことに集中しろ」って言ってるんでもないんですよ。結果として完全に行き渡った純粋な意識があるから、お茶を飲むときも完全にそのままやってるっていうことです。お茶が大事なんじゃないよ(笑)。あくまでも茶道とかはそれだけを取り出してるだけで、お茶とかお花が大事なんじゃなくて、一切を純粋な行き渡った覚醒した意識でやると。
 だから武道とかも多分そこに行き着くと思うんだよね。武道とかも――もちろん武道っていうのもさ、実際には、気を練り、あるいは気を浄化しっていうプロセスが含まれて、その果てに――まあ、わたしも柔道やってたけども、柔道はわたしはあんまり練習しなかったからそんなに強くなかったけどさ、その戦いの場面とかにおいても、なんていうかね、まあ見えないんだけど相手の動きがわかるとかね。あるいは、考えてやってるわけじゃないんだけども、相手の次の動きに合わせて普通に体が動いて投げちゃうとかね。そういうのが、ものすごく調子いいとき(笑)、ものすごく、なんていうか意識が集中してるときにそういうことが起こったりする。で、それを二十四時間もし保てたら、それは素晴らしいマインドフルネスです。
 で、ちょっと話を戻すけど、でもそれは実際には、それを表面的に真似してやろうとしても、結構無理があると思う。それには、繰り返すけど、気道が浄化されてなきゃいけなくて、あるいは気が上がってなきゃいけないっていうことだね。だから実際には――実際にはっていうか、皆さんにいつも言ってるように、現実的に、そのような一つ一つの修行のプロセスをものにしていくには、現代においては特に総合的なヨーガがやはり必要になってくる。
 別パターンとしては、さっき、最初に言ったけども、バクティヨーガ。バクティヨーガはこれは全然違います。バクティヨーガは神へのマインドフルネスなんだけど。神へのマインドフルネスだから、この世のことはもうすっ飛んでしまいます(笑)。すっ飛ぶ。ある意味ね。全然注意してません(笑)。もう神に没入してしまうと。神でいっぱいであると。で、その人に誰かが何かやってきても、全く気付かないと。あるいはその状態で何か、ラーマクリシュナみたいに、半分神に突っ込んだ状態で何か食べたり、あるいは飲んだりしてても、それに対して全然意識してないわけだね。これは逆パターン。これはこれでもう素晴らしい。
 はい。でもちょっと話を戻すけど、ここで言ってるのは仏教の基本的な発想として、常に意識を覚醒させ続けなさいと。つまりボーッとして、タマスで、あるいは意識がどっか行っちゃってやるんじゃなくて、一個一個のやってることにしっかり集中して、覚醒した意識を持ち続けなさい、っていうことですね。

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