解説「菩薩の生き方」第二十四回(7)

よって、「念は常に心の門から遠ざけられてはならない。念が離れ去った場合には、悪道の災厄を思い起こして、元に連れ戻されねばならぬ」と。
はい、これはもうさっきから言ってる、同じことのまとめね。この念があるイコール、今の例えで言うと、正しい道、あるいは素晴らしい境地、ここにたどり着くための要件を備えてるっていうことです。しかしこれは、すぐに消え去ると。消え去るっていうか、すぐに、一時的にですけども、パッと忘れてしまうと。
もちろん、理想的にはっていうかな、われわれはどんどん、教えそのものと、あるいは聖なる理想そのものと一体化していかなきゃいけないんですよ。一体化っていうのは――つまり一体化してないから離れるわけですよね。一応持ってると。持ってるけど自分のものじゃないから、すぐに忘れちゃうと。でも一体化してたら別に努力しなくても――だからいつも、わたしよくさ、冗談っぽく言うように、「皆さん、さあ、『歩く入菩提行論』になりましょう」と。あるいは「『歩くバガヴァッドギーター』になりましょう」と。あるいは「『歩くエッセイ集』になりましょう」と。ね(笑)。
で、これは、わかると思うけど、段階的な意味がある。まず第一段階の意味は、しっかりと教えを修習することで、そのデータがまず根付くと。データが根付いた状態っていうのは例えば、何か人と会話したりとか質問されたときに、「あ、それこうですよね」と。すぐに教えに基づいた情報が出せると。これは第一段階。これはこれで素晴らしいと。しかしより素晴らしいのは、それがただの情報ではない。心が完全に変えられてると。まあつまりさ、前者だけの場合、学者タイプではそういう人いるかもしれないね。つまり仏教のことすごく学んでて、「こういうときに仏教でどう考えるんですかね?」「いや、それはあの経典にこう書かれてるあるように、こうでこうでこうで」と。つまり学者的な感じ。「素晴らしいですね!」と。でもその人の心は煩悩まみれであると。これじゃしょうがない。つまり第二段階ではそのデータとして根付いた教えを心にしっかりと根付かせると。成熟させると。これがだから、より深い意味での、「歩く入菩提行論」とか、あるいはダルマそのものと一体化してるっていうことだね。うん。それはまだ悟りではないかもしれない。その意味ではつまり、第三段階が悟りだね。
第一段階――教えの表面的なインプット。第二段階――心がそれによって成熟すると。第三段階――悟ると。
つまり何を言ってるかっていうと、悟りそのものはデータとは関係がない。次に第二段階のこの成熟っていってるのは、つまりさ、普通の人、あるいはまあみんなも含めて、人の心っていうのは、これもいつも言うように、結局データなんだね。データ。どんな人もですよ。良い心の持ち主も悪い心の持ち主もどっちもデータです。過去の経験のデータです。でもそれが、まさにイコール自分っていうように、つまり皆さんはっていうか、普通の場合はそういう自我意識を持ってるわけですね。つまり「わたしが思うには」とか「今わたしはこういう感情が出た」とか、つまりこの感情、あるいはもう本当に自分そのものと錯覚してるこの心、あるいは観念、だからここまで過去からデータが根付いちゃってるんだね。皆さんが今例えば「いや、わたしは性格上こうなんです」とか、あるいは「こういうときにこういう感情が出てくるんです」とか言ってるのは、全部ただのデータです。しかし、根付き方がすごい。ものすごく根付いちゃったデータだと考えてください。でもどっちにしろデータだから。っていうことは、教えもそこまでいくことも可能だっていうことです。教えによって完全に心が、つまり成り立たせられるというか。
まあ、つまり心というのは、その意味ではブロックみたいなものです。ブロックっていうのは、レゴブロックみたいに、無数のブロックでできてる。でもこのブロックの一個一個がなんなんだっていうのが問題なんだね。それを全部教えに変えてしまうと。そうなるとその人の発想、あるいは感情、つまりその人は――これは理想的に言えばですよ――その人が、例えばだけどね、菩薩道をしっかり学んでたら、あまり自分がばかにされたり、あるいは苦しくても、あんまり悲しまない。でも人が苦しんでるのを見たらすごく心が動くと。「なんて哀れなんだ!」と。つまり別に教えに基づいて考えるとかじゃないんですよ。「あ、ここは四無量心だ」とかじゃなくて、自然に「なんて哀れなんだ」と。あるいは例えばグルとか神のことをちょっと考えただけでブワーッて涙が出てくる。あるいはほんとに奉仕したいっていう思いが、なんていうかな、ブワーッて出てくると。あるいは例えば人からそのような、ね、帰依とか修行とかを否定されるようなことを言われたとしても、全く心が動かないと。つまりこれは確定されてる状態ね。で、このような状態まで持っていけたらそれは素晴らしい。
それは悟りではないって言ってるのは、悟りは、繰り返すけど、このデータとは全く関係がないから。心の本性みたいなもんだから。でもこの心のデータをまずしっかりと聖なるものにしないと、なかなかその心の本性にたどり着けない。あるいはいつも言うように、もし皆さんが救済をする場合は、単に「心の本性悟ってまーす」だけじゃなくて(笑)、このデータの世界、さっき言ったこのブロックの一個一個を全部聖なるものに変えないと、自分だけじゃなくて人も覚醒させるとか、そんなことはなかなか無理であると。
はい。だからちょっと話が広がったけども、そのように、まずは表面的に、そしてのちのちはしっかりと心の深いところまで、教えがしっかり根付くようにしなきゃいけないんだね。
