解説「菩薩の生き方」第二十四回(4)

「病に悩める人がすべての行為に不適当であるように、この念と正智の両者を欠くときは、心はすべての行為において為すに値しない。」
これも一つの例えですけども、病気でいろんな症状が起き、あるいは肉体的なエネルギーがないと。このような状態の人は、「何々ができないけど何々はできる」っていうよりも、つまりそれが非常に悪化した病気だった場合、一切において不適当であると。その人が例えば、ね、運動するのも不適当であると。あるいは例えばみんなの前で講演するのもそれはちょっと難しいかもしれない。あるいは勉強するのも難しいと。この肉体が完全に何かで衰弱したり、あるいはエネルギーがなかったり、あるいは体中が痛みに襲われて動けないとかね。そのような状況のときは、一切において、行動において不適当であると。同様にこの念と正智が欠けてるとき、つまり正しい心を持ち続ける念と、それをしっかりとチェックし続ける正智の働きがもうなくなっちゃってるときっていうのは、それは一切の行為においてなすに値しないと。なぜかというと、繰り返すけど、そのような念も正智もない状態で行動しちゃったら、その人は当然悪しきカルマを積み続け、地獄に落ちるから。つまり地獄に落ちるための行為、人生なんて、あっても意味がないですよね。だからそのような行為っていうのは、なんの意味もないんだと。あるいはなんの価値もないんだと。
はい、そして、「その人の心に正智がなければ、教えを聞くこと、考えること、瞑想することは、穴の開いた瓶から水が漏れるように、念(スムリティ)としてとどまらない。」と。
はい。「教えを聞くこと、考えること、瞑想すること」っていうのは、よくこれは大乗仏教とか密教でいわれる教えの三段階ね。つまりまずはわれわれは教えをしっかり学びましょうと。そして、その学んだ教えをしっかりと思索して、その意味を深く考えましょうと。で、それに基づいて深く瞑想しましょうと。あるいはこの瞑想プラス実践もいわれることあるけどね。つまり教えをしっかり実践すると。はい、そのようなことをわれわれはしっかり日々修行としてやるわけですけども、しかしそこに正智がなければ、つまりさっきから言ってる、この教えを学んでそれを考えて瞑想することで、教えのデータがちゃんと心にインプットされて、その教えに基づいた考えっていうものはグーッとできていくはずなんですけども、しかしそこに正智――さっきから言ってる、「さあ、わたしの心は正しく保たれてるかな?」――この覚醒した意識の観察作用がなかったら、「穴の開いた瓶から水が漏れるように」ってあるけども、つまりまさにその例えだね。つまり瓶がありますよと。ここに穴が開いてると。で、水が注がれてる――これはつまり教えを学んでると。あるいは教えを考えてると。瞑想してると。でも穴が開いてると、当然注いでもどんどん漏れてくから、その瓶という心の器に教えという水がたまらないと。
で、こんなことは、でも観察すればわかるわけです。ジーッと「大丈夫かな?」って見てたら、「あれ? なんか貯まんないな」と。「どうなってるんだ?」と。「ここに穴が開いていた!」と。うん。そしたら修復すればいいよね。でも正智がないとそれができない。つまり、ちゃんと自分の心を観察することなく、ただ機械的に教えを学んでると。あるいは機械的に修行してると。もちろんこれは悪くはないよ。悪くはないっていうのは、機械的であろうがなんであろうが、教えを学び修行することはプラスにはなる。しかし、正智がそこで足りなかったら、学んだそばから悪い心が出て、学んだそばから教えどおりじゃない心になって、全く根付かないということだね。だから正智が非常に大事ですよと。教えを学ぶ作業――これは念を強めることにはなるけども、「それがちゃんと根付いてるかな?」「教えどおりできてるかな?」――この自己観察、これをしっかりとやらないと、全くその教えっていうのは根付きませんよ、ということですね。
「多くの教えを聞き、信仰を持ち、努力に専心しても、正智を欠くという過ちのために、人々は罪に汚されたものとなる。」
これは同じまとめですね。表面上っていうかな、多くの教えを学び、信仰を持ち、努力をしたとしても、この正智っていうのが忘れられてるために、つまり自己の心を観察し、変になってたら修正するっていう努力を怠ってた場合、せっかく修行してるのに、教えを学んでるのに、結局悪業が増大しちゃいますよ、というところですね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第二十四回(3) -
次の記事
アラク・ド・ガクへのアドヴァイス(8)
