解説「菩薩の生き方」第二十四回(2)

【本文】
傷によるわずかの苦痛を恐れて、私は傷を注意して守る。
衆合地獄の山の重圧を恐れて、何故心の傷を守らないか。
悪人たちに対しても、美人たちの中でも、かような態度で振舞いつつ、堅固な修行者は、躓かない。
【解説】
我々が肉体の傷を害されるのを恐れるとき、仮に傷が害されて傷口が悪化したとしても、その痛みや苦しみはわずかなものです。しかし心の汚れという傷を害されてその汚れが悪化したなら、我々は地獄に落ち、ものすごい苦しみを味わわなければならなくなるかもしれません。だから肉体の傷を守るときよりもより細心の注意を払って、善き心を守らなければならないのです。
先ほど、悪人の中にいると、自分も悪心が出てくるかもしれないから気をつけなければいけないというようなことを書きましたが、悪人ではなく善き人のそばにいるときも同様です。たとえば他人の美徳を見て、嫉妬という悪い感情が出てきてしまうかもしれません。ですから結局、どんなときでも、自分の心の汚れが噴き出さないように、細心の注意を払い続ける必要があるというわけですね。
はい。まあこれもわかりやすいですね。まあシャーンティデーヴァがよく使う比較の理論だね。つまりさっきも言ったように、われわれは、傷やけがをしたとき――ね、例えば、いつも言ってるけど、わたしも中学生のころいじめに遭ったわけですけども――そのころっていうのは、現代はよくわかんないけど、結構中学校が全国的に荒れてた時期だったんだね。わたしは転校先でいじめられたんだけど、転校する前の、一番最初に入った中学校は、小学校からみんな上がってきてるから、みんなほとんど友達ですから、別に気心は知れてたわけですけども。何回か言ったど、この一番最初に入った中学校も、もう有名なっていったら変ですけど、まあ不良中学っていうか(笑)。地域の中学だからしょうがないんだけど。不良中学で、入ったらもうほとんどが、ちょっと古いけどね、眉を剃り、剃りを入れ(笑)、で、ボンタンっていう(笑)、太いのを履いて、あるいは短い学ランにしたりしてね。で、何回かこの話してるけどさ、一年生で入って、どんどんみんな、友達がそんな感じになっていくんだね。で、彼らの言い分としては、「常識なんて」みたいな感じで、「社会に染まらない」みたいに言ってるんだけど、みんな同じ格好してて(笑)、わたしだけ全く興味なかったから普通の学ラン着てて。うん。「おれが一番社会に染まってなくて目立ってる」と(笑)。
(一同笑)
そういう世界だったんだけど(笑)。ただ、そこでもちょっといざこざはあったけど、でも友達が多いんであんまり問題なかった。で、転校した先でいじめに遭ったわけだけど。で、わかると思うけど、もう、ちょっと、なんていうかね、現代の中学生はわかんないけど、そのころの中学生は、思春期というのか、ちょっと分別がもちろんついてないけども、なんかこう心がいきり立ってるような人がいっぱいいてね。もうほんとに何があるかわかんないみたいな(笑)、雰囲気は確かにあったね。で、いじめみたいなのが流行ってたから、ちょっと、なんていうかな、わたしが行ってたその転校した先の学校で、わたしや他の人をいじめてたような人たちは、もう、なんて言うの、ちょっと、「クスリやってますか?」みたいな(笑)、そんな感じの人が多かった。ちょっと目がいっちゃってるみたいな感じで。で、すぐ暴れだすとかね。なんかそんな感じがあった。だからまさにここに書いてるような――これ、リアルな感じで、例えばわたしがもしケガしてたとしたら、教室に行ったら、もう多分ね、ビクビクっていうか、いつ誰が発狂してね(笑)、襲ってくるかわかんねーぞ、みたいな――オーバーに言うとね。そんな感じもあったと。
で、これは一つの例えですけども、例えばそういう状況にあったら当然傷を守ると。で、なぜ守るのかというと、何度も言うけども、これがまたやられちゃったら悪化して、より、痛いとか、あるいは当然傷の治りが遅くなるとか、マイナスをまあ危惧してるわけですよね、恐怖してると。もちろんそれは大変な苦しみであるしマイナスであるけども、しかしそんなものはわずかなことであると。それよりも、ここに書いてあるように、「衆合地獄」って書いてあるけど、地獄に落ちた苦痛っていうのはもう計り知れないと。ちょっと骨折したとか、切り傷とかやけどとか、そんなのはもうなんの比較にもならない。ものすごい心身の恐怖と苦痛をものすごい長い間味わわなきゃいけないと。これがこの心の傷、つまり煩悩や心のけがれによって、それがどんどん悪化することによって行く世界なんだと。
だからさっきの大地の例えで、傷を持つ者がチンピラたちの中で傷を守るように、心に煩悩というけがれを持つ者は、それが悪化しないように、そういった情報やそのような悪いカルマを持つ者たちの中で、自分のけがれが増大しないようにしっかりと注意しなさいと。
で、この二つの例えは、例えとしては同じシチュエーションではあるんですけども、その内容、つまりその苦しみの大きさが比較にならないんだと。だったらその前者、つまり普通皆さんはケガしてたら、そのようなちょっといっちゃってる人の中では傷を一生懸命守るでしょうと。だったらそれとは比較にならないようなダメージが待ってる心のけがれの増大は、絶対それは抑えなきゃいけないと。もうここに、この世界に行ったらどんどん生きてるうちに煩悩増大するかもしれない。その増大が向かう帰結の先はね、帰結は地獄なんだと。それをリアルに考えたら、もう徹底的に守る。つまり最低限今の自分の煩悩やけがれが増大しないように、そしてもちろん修行によってそれがどんどん浄化されていくように守りなさいっていうことですね。
はい。で、ここで美人って書いてあるのは、この解説にもあるけども、別に顔が美しい人っていう意味じゃなくて、心の美しい人っていうことですね。つまり、ある程度の善人、あるいは修行して心がある程度きれいになってる人ね。で、それは、ここに書いてあるように、それもこっち側の傷、つまり煩悩の状態によってね、ここに書いてある、例えば素晴らしい人がいたら逆に嫉妬してしまうかもしれないと。逆にね。うん。つまり悪人、つまり煩悩的な人やけがれた人の中に――あのさ、この「悪人によって心がけがされる」っていうのは、何度も言ってるけど、いろんなシチュエーションがあるよね。例えばその悪人によって心が乱されると。それはあるかもしれないけど、一番怖いのはさ、模倣なんですね。模倣ね。何度も言うように、人というか魂っていうのは模倣するようにできてる。つまり周りにあるタイプの人がいると、無意識にっていうか、それを真似てしまうんですね。そのムードっていうか、それに自分も浸ってしまうと。もちろんそのような人がいっぱいいたら、当然そのムードに自分もどんどん引きずられるよね。で、いっぱいいなくても、例えばそれが一人、二人であったとしても、一緒にいるうちにどんどんその考え方、フィーリング、カルマっていうものにこっち側もだんだん染まってくると。だからそれを徹底的に念正智して守れっていうことだね。
もちろん、いつも言うように、そうじゃなくて、守りつつ、同時に周りにいい影響を与えられたら、これはもう菩薩道なので、これは最も素晴らしいけども。しかしそれができなかったとしても、最低限自分の心は守りなさいということですね。
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