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解説「菩薩の生き方」第二十三回(3)

 はい。じゃあちょっと解説のところを見ていくと――これはいつも言うように、この本自体が、この『入菩提行論』をわたしが、昔ね、書き下ろしでネットとかに載せた解説なので、さらにその解説になるので、まあ、よりね、ちょっとその本質を練って見ていく感じになりますけども。
 はい。最初のところは、さっき言ったことと同じですね。「仏教では我々の活動を身・口・意、すなわち身体の行動、言葉、心の働きの三つに分ける」と。「そこにおいて最も重要なのは心である」と。
 「もともと古典的ヨーガであるラージャ・ヨーガは、結局心の集中力による瞑想を第一においています。原始仏教も、心による瞑想がメインです。しかしそれだけでは修行を成就できないほど我々の心が堕落してきたので、肉体を使った修行、そしてマントラや詞章などの言葉を使った修行によって、心の修行が補助されてきた」と。
 はい。これはわかりますね? 原始仏教ではあまり――あまりというかほとんど呼吸法とかはもちろんやらないし、もちろん自分の呼吸を観察するっていうのはやるけども、意識的な呼吸法とかはやらないし、もちろんアーサナとかもやらないよね。ヨーガにおいても、古典ヨーガにおいては――これは皆さんわかると思うけど、よく現代のさ、アーサナ中心のヨーガの人たちが、『ヨーガスートラ』とかをその根拠に持ってきたり、あるいは『ヨーガスートラ』ではまず、ね、禁戒・勧戒ってあって、そのあとアーサナが来て、呼吸法、プラーナーヤーマが来るんですよという言い方をするけども、カイラスで出してるあの『ヨーガスートラ』の解説の『ラージャヨーガ』とかを見てもわかると思うけども、『ヨーガスートラ』でいってるアーサナっていうのは、あくまでも「座り方」です。まあ座り方っていうか、座法を安定させましょうと。だから『ヨーガスートラ』のときの時代はああいう体操みたいなのはないんですね。とにかく蓮華座とか、あるいは達人座とか、安定し、かつエネルギーが上がるような座り方ね、これをしっかりと安定させましょうっていってるにすぎない。あと呼吸法も、呼吸を整えることは書いてあるけども、これも具体的な、いろんなプラーナーヤーマとかが推奨されてるわけでもない。つまり座法をまず安定させ、呼吸を安定させることで心を安定させましょうといってるにすぎない。まだあまり肉体的なものによって心を変えるっていうのは重視してないんだね。で、マントラも、「アーウーンー」のマントラは出てくるけど、それぐらいですよね。オーム、アーウーンーのマントラによって深い意識に入る方法は書いてあるけども、そのほかのいろんなマントラっていうのはまだ出てきていないと。とにかくそうじゃなくて、真我、あるいはいろんな対象への超精神集中、これがいろんな角度から説かれてるわけだね。
 原始仏教も同じで、原始仏教を見ても、当たり前だけど――原始仏教においては、そうだな、経行っていうのはあるけどね。経行。経行によってちょっと気を通すっていうのはあるけども、あくまでもそれは補助であって、説かれてる瞑想法は、あるいは修行は、内面的な心の修行であると。
 はい。しかし、そのような、心だけの修行ではなかなか修行は進まないと。もしくはうまくいかないと。よって、呼吸法、あるいは肉体行、あるいはマントラ等の言葉のバイブレーションを使った修行と、いろんな修行が生まれてきて、補助されるようになっていったわけだね。
 ちなみにこの肉体行とかマントラとかを十分に使いだしたのが、クンダリニーヨーガとかハタヨーガとかいわれる派ですけども、これらはどっちかっていうと、そうですね、それまでのヴェーダとか、あるいは『ヨーガスートラ』とかの伝統的な、いわゆるブラーフマナとか――たちの流れではなくて、インド土着の、例えばシャクティ女神信仰とか、あるいはシヴァの信仰とか、そういうところから生まれてきたものなんだね。で、この辺は実はちょっとまだ歴史的に謎が多い。この辺のエネルギー的ヨーガの発達はね。謎が多いっていうのは、実はこの時期、仏教も同じように密教化してるんですね。仏教でも同じように、肉体行、そしてマントラ、あるいは呼吸法、そしてさまざまな秘密の瞑想法とかがどんどん出てくるようになると。で、これ、いろんな説があるんだけどね。説によっては実は仏教の方が先だっていう説も結構強い。仏教の方が先だっていうのは、仏教がまず密教化したと。だから変な話だけど、仏教の方が最初アーサナとかやりだして、それがヨーガの方に取り入れられたっていう考えもある。もちろん逆の考えもある。ヨーガがそういうふうになっていって、それを仏教が取り入れたと。で、同時っていう考えもあるよね。つまり仏教もヨーガとかヒンドゥー教の方も、まあ同時期にそういった修行や、あるいは肉体行をどんどん発展させたっていう考え方もある。その辺の順番はよくわかんないけど。ただ、大まかに言うと、確かに同じような時期にヒンドゥー教、それから仏教が、そのようなかたちでエネルギー的な修行をどんどん発展させていったと。
 だから例えばさ、その時期の仏教教団のお寺にシヴァ神が飾ってあったりするっていうんだね。だから結構ごっちゃになってるんだね。あるいは皆さんも聞いたことあると思うけど、例えば仏教の、ね、昔ここで勉強会やってたあの『八十四人の密教行者』のシリーズがあったけども、あの中でゴーラクシャっていうのが出てくるんですね。このゴーラクシャっていうのは、ゴーラクシャナータといって、さっき言ったハタヨーガの、まあナータ派といわれるハタヨーガにおける根本のグループみたいなものの教祖みたいな人なんだね。つまりヨーガ系の偉大なる聖者が仏教の聖者の一人として、そのころの伝記に入ってるんだね。だから結構ごっちゃになってたと。
 はい、そのようなちょっと密教系なものが生まれてきて――その辺が謎だっていうのはさ、例えばよく、まあ最近もちょっと前にチベット体操とか流行ったりしたけども、あのチベット体操っていうのは実際はトゥルコルとかヤントラヨーガっていって――あれはなんだっけ、西洋人がちょっとチベットに行ってそのときに教わったいくつかの体操を体系化したみたいに書いてあるけども、実際にはああいう五つとかだけじゃなくて、たくさんの体操みたいなのがあって、それは派によっていろいろ違うんだけど。でも例えばさ、ちょっとそれを体系的にすごくやってる――まあ例えばカギュー派とかニンマ派とかは結構そういうのをやるわけだけども、ニンマ派のある聖者がそのアーサナっぽいヨーガを結構やってて。で、それを見ると、形は普通にアーサナなんです。普通にアーサナっていうのは、ここでやってるようなね、普通にカイラスでやってる、普通の基本的なヨーガの本に載ってるような普通のアーサナの形がバーッて載ってる。だからそれはどっちが先かよくわかんないところがあるんだね。うん。もしかすると仏教の方が先にそれらを開発して、それがヨーガに取り入れられたのかもしれないし。
 でもとにかくこれらは、繰り返すけど、『ヨーガスートラ』とかの流れとはちょっと違うんですね。だから例えば現代のそういう体操とかのヨーガをやってる人たちが、もしその起源的なものを学ぶとしたら、どっちかっていうと今言ったハタヨーガ系の、例えば『ハタヨーガ・プラディーピカー』とか、あるいは『ゲーランダ・サンヒター』とか、そういったものが根本経典になってくるんだね。

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