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神への愛

 バクティだけで神を見ることができる。しかしそれは、熟したバクティ、プレーマ・バクティ(神を愛するバクティ)、そしてラーガ・バクティ(神に執着するバクティ)でなければならない。このバクティを持っていれば人は神を、まさに母が子を、子が母を愛するように、妻が夫を愛するように愛する。
 神に対してそのような愛と執着を持つようになると、人は妻子や身内や友達に対してマーヤーの執着は感じない。彼らに対する慈悲心だけを持ち続ける。
 このような人にとっては、世界は他国、単に仕事をするだけの場所と見えてくる。ちょうど、自分の家は田舎にあるのだが仕事のためにカルカッタに来ている、という人のようなものだ。彼は、自分の務めのためにカルカッタに家を借りなければならないのだ。神への愛が深まると、人は完全に、世間と世俗的な知恵への執着を捨てる。
 世俗性への、たとえごくわずかな痕跡でも持っていれば、人は神を見ることはできない。マッチ棒がもし湿っていれば、千本こすっても火はつかず、棒の山を捨てるだけのことだろう。世俗に侵された心はちょうどこのような湿ったマッチ棒である。
 あるときシュリー・ラーダーが友達に、自分はクリシュナを内にも外にも、いたるところに見ると言った。友達は、
「まあ、私たちには彼はまったく見えない。あなたは錯乱しているのではないか」と答えた。
 ラーダーは言った、
「友よ、目に神への愛という目薬をさしてごらんなさい。そうすればあなた方にも彼が見えますよ。」と。

  ――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

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