解説「菩薩の生き方」第二十二回(5)

【本文】
大地をすべて覆うことのできる皮が、どこにあるだろうか。それはどこにもありえない。
ただ皮の靴を履くことによってのみ、大地はすべて覆われる。
これと同様に、私は外界の存在物を制することはできない。私は自分の心を制しよう。どうして他を制する必要があるだろうか。
【解説】
ここは有名な一節で、入菩提行論の中でも最も美しい詩の一つといえるでしょう。
そしてこの部分こそ、この章のメインテーマを最も言い表しているともいえます。
普通、我々が「幸福」を考えるとき、「外的条件を整える」事を考えます。たとえば、良い結婚をしたら幸福だが、できなかったら不幸だとか、お金があったら幸福だがなかったら不幸だとか。
しかしこれら外的条件は、常に移り変わるものであり、常にあらゆる条件を整え続けるということは不可能なのです。ちょうど、大地全体を皮で覆うことが不可能なように。
そうではなく、自らが革靴をはくなら、それはその人にとっては、大地全体が皮で覆われたのと同じことになります。つまり、仏教が求める幸福とは、「外的条件を整えた幸福」ではなくて、「外的条件に左右されない内的幸福」なのです。恋人がいてもいなくても幸福、お金があってもなくても幸福なのです。そんな無常な外的条件とは全く関係がない、自らの心が浄化されることによる幸福なのです。
だから、我々が修行を進める上において、あるいは幸福になる上において、周りの条件をどうこうしようということは、この大地を一生懸命皮で覆おうとしているようなもので、苦労が多いばかりでナンセンスなことです。それよりも自ら革靴を履きましょう。自己の心を制しましょう。自己の心を浄化しましょう。自己の心を至福で満たしましょう。それが唯一重要なことです。
はい。これもさっきの続きで、とても美しい、そして有名なね、最も、『入菩提行論』の核の一つと言ってもいいぐらいの一節ですね。
「大地をすべて覆うことのできる皮が、どこにあるだろうか。それはどこにもありえない。
ただ皮の靴を履くことによってのみ、大地はすべて覆われる。」
と。
「これと同様に、私は外界の存在物を制することはできない。私は自分の心を制しよう。どうして他を制する必要があるだろうか。」
と。
はい、この解説は、もう本文がほとんど言ってるわけですけども、われわれは、普通はね、当たり前だけど、外的なものを整えて幸福になりたいっていう気持ちがある。しかしそれは、まさにこの大地を、すべての大地を皮で覆おうとしてるようなものだと。つまりカルマによって一切は移り変わっていく。その一つ一つでさえ、その環境とかその状況を変えるのは大変なわけですけども、すべて移り変わっていくと。そのすべてを、あらゆる場面場面、あらゆる状況状況において整えていくのは、もう至難の業であると。
もちろん、現実的に生きていていろんな外的なことに一切手を出してはいけないっていうことはないけども、そうじゃなくて、言ってることわかると思うけど、何が主眼なのかっていうことですね、ここのね。つまりわれわれは環境を整えて幸せになるっていうものではないと。
ここにも書いてあるように、例えば恋人がいるとか、あるいはお金があるかどうかとか、あるいは例えば欲しいものがたくさん手に入ったかどうかとか、あるいは自分の地位とか名誉があるかどうかとか、そういうものはあまり実際はわれわれの幸福とは関係がない。そうじゃなくて、ここに書いてあるように、例えば自分が革靴を履きさえすれば、彼にとってはこの全大地はどこに行こうが皮で覆われたものであるのと同じように、自分の心をこそ完璧に浄化するならば、あるいは徳で満たし、あるいは祝福で満たすことができるならば、もう環境は関係なくなってしまう。つまりどこに行っても皮の上っていうのと同じように、どこに行っても至福であると。どこに行っても幸せであると。
まあこれは仏教の、つまり唯心論的な発想の中心的な考え方ですけどね。つまりこれは、よくそういう話あるけどね。例えば、地獄を見る者はどこに行っても地獄を見ると。あるいは天の世界を見る者はどこに行っても天の世界を見ると。
ちょっとこれも端折って言うと、有名な説話がありますよね。これも何回かこの勉強会でも言ったけども、ちょっとわかりやすくユーモアっぽく言うと、何人かの仲間が亡くなったと。死にましたと。で、それぞれの世界に生まれ変わっちゃった。つまりある者は地獄、ある者は餓鬼、ある者は動物、ある者は人間界、ある者は天界と。生まれ変わりましたと。で、彼らが――まあ、あり得ない話だけどね、久しぶりに集まったと。ね(笑)。久しぶりに同窓会みたいな感じで集まったと。で、そこに水があった。で、それに対する反応がそれぞれ違ったっていう話なんだね。つまり地獄の住人にとってはその水が、高熱で鉄が溶けたドロドロの、自分を苦しめる溶岩のようなものに見えたと。で、恐怖したと。餓鬼の住人にとっても――餓鬼の住人はよく、何かおいしいものを食べようとするとそれが毒に変わるとか、ドロドロの溶岩に変わるとかってなるけども、同じようにその水を飲んだときにそれによってそれが焼けた鉄の塊に変わり、グワーッて食道を焼かれてしまったと。次に、動物界の住人にとってはその水が――その動物は魚だったわけだけど、まさに住処に見えたと。わたしの住処――つまり水であると。ただそれだけと。人間にとってもそれはただの水であったと。つまり飲み水であると。まあ、ね、人間界で定義される水っていう一つの物質にすぎないと。そして、天の神に生まれ変わった者にとってはそれが甘露になったっていうんだね。つまり至福を与える素晴らしい純粋なる甘露であると。
つまりこれが、すべては心っていうことです。つまり例えば、じゃあ天の甘露っていう物理的な何かがあるのか。まあ、あるのかもしれないよ。でもそれは主従関係でいったら、そのような物理的なものが最初にあるんじゃなくて、まず心があって。心のあらわれとしてその液体が甘露として見えると。見えるっていうか甘露として作用すると。でもそれが、その全く同じ水が、地獄のカルマを持つ者、地獄の心を持つ者にとっては、自分を苦しめるドロドロの焼けた鉄になるんだね。でもこれ同じなんですよ。同じっていうか、これ、仮の話ね、仮の話として、ここに、じゃあ、ニュートラルな男がいたらどうなるかと。ね。ニュートラルな男。ね(笑)。ニュートラルな男がいたら――これ、仮の話ですよ――ニュートラルな男がいたら、それはなんか、そうだな、水に見えるかもしれないけど、まあ、とにかく何かの普通の液体にしか見えないと。でもそれが、それぞれのカルマによって全然違うものに見える。
ただね、今、ニュートラルな男って言ったけど、仮の話ですよって言ったのは、実際にはニュートラルな男って存在しません。ニュートラルな絶対的な何かがあるわけじゃないんだね。まあ、そもそも何もないんだけど。そもそも何もないんだけども、それぞれのカルマによって、同じ条件によって目の前に現われたものが、今言ったように、ある者にとっては自分を苦しめるマグマに見え、ある者にとっては、まあ、なんでもないただの水に見え、ある者にとっては甘露の素晴らしい至福の媒体に見えると。
はい、これと同じで――よって、じゃあ、この甘露が一番いいよね。甘露が一番いいから、われわれはこの甘露を手に入れるために戦わなきゃいけないのかっていうと、そうじゃないですよね。心を変えるしかないわけだね。心を変えることによって、一切の液体が甘露に見えるくらいの状況にまで持っていかなきゃいけない。
あるいは、例えば人間関係いろいろありますねと。ね。あの人こうなんです、この人こうなんです。最初の段階ではさ、もちろん、「じゃあちょっと、あの人にちょっとこう言ってやめてもらおうか」と。「あの人いつもこういう文句ばっかり言って、もうストレスで嫌になっちゃいました」と。「じゃあちょっと、話し合って文句やめてもらおうか」と。これはありですよね、最初は。最初はありなんだけども、修行者の目指すところは当然そうじゃないよね。どういう状況であっても、相手がどういう反応してきても至福であると。あるいは愛によって相手の幸福を願えると。そこまでグーッと持っていかなきゃいけない。
その途中段階ではもちろん苦しいよ。途中段階では苦しみつつ、自分のエゴと戦いつつ、でも教えを取るっていう訓練をしていかなきゃいけないんだけど、最終的には、もう自動的に――この間の『シクシャーサムッチャヤ』にもそういう一節あったよね。徹底的に相手の幸福を願う訓練をし続けてると、もう、なんていうか、何されても至福になってしまうと。これが一つの心の完成の境地ですよね。で、こうなった人が一番幸せなわけですね。
外的なことを信じてる人は、繰り返すけど、その外的なことを、なんていうかな、なんとかやり込めたり、あるいは変えてしまうことによって自分の幸せにつながるって信じてる。でも絶対それはありません。次から次へと、カルマを超えない限りはやって来るからね。そこでなんとか相手をやり込めて自分の気持ちをそこで達成させたとしても、また違うカルマがやって来て苦しまなきゃいけない。
そうじゃなくて自分の心を完全に制し、そして悪しきカルマの習性を乗り越え、聖なる教え、あるいは慈悲の心、愛の心でいっぱいにした人、あるいはグルやブッダの祝福でいっぱいにした人、この人にとっては――この人はもちろん修行者としても素晴らしいけども、普通に生きてても、その人には幸せしかありませんよと。
だからこれはまさに、いつもよくわたし昔言ってたけども、全人類が当然憧れる境地ですよね。
よく、例えばさ、修行者、特にここでやってるような厳しい修行とかを見ると、一般的には、「ああ、それは大変そうだ」と。「わたしはそうじゃなくて、自分のいろんな幸せを求めたいから、厳しい修行とか耐えられない」って言うかもしれないけど、でも実際には、わたしは――まあ、これも一つの言い方なんだけどね、実際は修行者こそが、最も、まあ変な意味、快楽主義であり、幸せを求めていて、修行者こそが実は最もエゴイストなのかもしれない。うん。つまり、なんていうかな、ほんとの幸せを求めてるから。ね(笑)。もうそんな、終わってしまう幸せとか、あるいはあやふやな、なんていうかな、概念的な幸せなんかでは全く満足できないと。ほんとの、なんの混じり気もない、完全なる幸せを求めてる。で、それをさ、まあ冗談みたいに言うけども、例えば一般の人にとって、「いや、わたしはほんとに日々の小さな世俗的な快楽でいいんです」と。うちのお父さんも、前にも言ったけど、よく、わたし高校生のころ、家で修行しててさ。で、うちのお父さんは、なんか道徳の勉強をしててね。いわゆる社会道徳とか人間道徳の。まあ、それはそれでもちろんいいことなんですけどね。で、たまにお父さんとそういう話をしたときに、わたしがそうやってすごく「悟りだ!」とか言って修行してると(笑)、「あ、まあ、わかるけど」と。「わかるけど、なんでそこまでやるんだ?」って言ってくるんだね。つまりお父さんにとっては、もちろん正しく生きて、社会の中で人間関係を良くして、それでいいと思ってる。もちろんそういう人も多いと思うよね。もちろん道徳とか関係なくても、日々のいろんな小さな幸せを追い求め、それで満足してる人もいるかもしれない。でもそういう人がさ、修行の達成として得られる、今言った、条件を度外視した幸福の心の状態をポンッと出されたらね――例えば三時間無料体験っていうのがあって(笑)、その気持ちをバッとインプットされたとするよ。「なんだこれは!」と。「何をされても幸福じゃないか」と。で、しかもその幸福のレベルが違うと。自分で自分を思い込ませてる概念的な幸福じゃなくてね。
だいたいね、世俗の幸福っていうのは、概念的な思い込みの幸福です。自分で自分を潜在意識が思い込ませてるんだね。「どうだ、どうだ、これおいしいだろ、おいしいだろ」と。あるいは女性と付き合ってるときは、「どうだ、どうだ、これがデートだぞ」と(笑)。「どうだ、どうだ、こんなに楽しいことはないだろう」と、もう自分で自分を思い込ませてるんだね。でもリアルに言うと、そんな大したことはない。この世の喜びっていうのはね。
でもそうじゃなくて、心が解放された喜び、心が純粋化された喜びっていうのは、大変な、もう得も言われぬものであると。で、それを例えば世俗の人が、三時間とは言わず五分でも経験したら、もう絶対元に戻れない。もう修行者になります。「もうおれはそれ以外いらない」と。つまりそれに出合えるだけのまだ縁がないだけなんだね。
はい。で、ちょっと話を戻すけども、よって、一切は心であると。われわれがもし幸福になりたいとしても、心を完全に浄化する以外に道はないんだと。
もちろんこれは救済も同じで、人を救う場合、もちろんいつも言ってるように、段階的にはありますよ。段階的に、例えば貧しい人に食事を与える――これは素晴らしい。あるいは病気の人を治してあげる――これも素晴らしい。でも本質的には、その人の心を変えるしかない。心を完全に解放させてあげるしか、本当の意味での幸福への道はないっていうことですね。
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