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解説「菩薩の生き方」第二十回(6)

 はい、だいぶ時間過ぎちゃったので、四念処だけちょっとパッといくと、次は、心は無常であると。これも簡単に言うけど、自分で自分の心を分析すると。そうするともう分かりますよね。心っていうのはほんとに、例えば「わたしはこう思う」とかね、あるいは「わたしの気持ちは」とか「わたしは」とか言うけども、それ自体がもうただのデータです。本質ではない。もちろん本質には心の本性があるわけだけど、その他は全部、重ね、乗っけられたデータです。うん。これをまず分析すると。あるいは分析できなかったとしても教えとして考えて、何か浮かんできても、ああ、これはただのデータであると。どこかで入れられたデータがパッと表面に出てきたにすぎないんだと。だからこの心も実体がない。
 つまり「肉体はわたしじゃない」までは行っても、「心はわたしだ」って思っちゃう人がいるかもしれない。潜在意識も違いますからね。「潜在意識こそわたしの本質だ」って思ってしまう浅いスピリチュアルもあるけども、潜在意識も違います。「わたしは普段はこうなんだけど潜在意識のわたしはこうなんですよ。」「ああ、そうだったんですか。でもそれも違いますよ」と。ね(笑)。潜在意識も深い錯覚だから。深いところにある、過去世からの積み重ねの錯覚にすぎない。
 例えば「わたしはいつも実は明るくしてるんですけど、潜在意識には暗い悲しみがあるんです。」――いや、そうかもしれませんが、それも錯覚です。それも演技です。深い演技にすぎない。だからこの心も全く本質がないんだよと。それはわたしの心も他者の心も同じ。すべて、ただのデータの集まりにすぎないよと。
 もちろんこれは逆に、それを逆利用して、これもね――だからこそ使えるように、つまり自分の修行と他者の救済、あるいは神の使命のために使えるように、この心を良い情報、良いデータでいっぱいにしなきゃいけない。そのためにしっかりと教学して、修行しなきゃいけないんだと。

 はい。そして最後の「法」。これは、「この世のすべての存在や現象が無常であり苦であり実体がない。」――これはもうほんとに日々いろいろ教えを学びつつ、いろんな目でこの世界を見ていくしかないね。この世はすべて幻影であると。ジュニャーナヨーガでは徹底的に幻影、幻影ってやるわけだけど、この世は幻影であると。あるいはバクティ的にもちろん、すべては神の現われ、神の愛だって考えてもいいけども、とにかくわれわれが普段見てる、教え込まれたようにはこの世界はできてないんですよと。そんなガチガチしたもんじゃないんだと。この世界を信じれば信じるほど、実体があるって信じれば信じるほど、われわれはこの世界に巻き込まれ、で、また何度も輪廻を繰り返さなきゃいけないと。

 はい。ちょっと長くなっちゃったけど、とにかくこの自分という存在を構成する、肉体や感覚や心、そしてわれわれが外側と思ってるこの世界そのもの、これらを教えに基づいて分析していくと。それによって、それらへの執着から離れていくと。これがまあ、基本的な四念処ですけども。
 しかし、ちょっとまとめるけど、実際にはそのような四念処だけではなくて、いろんな教えをしっかり学び、その教えによってあらゆる現象を見ていくと。これがここに書いてある、「教学した内容のアウトプット」っていうことですね。アウトプット。まず教学すると。教学の内容に基づいて世の中を見ると。もちろん完全な悟りを得ていれば、当然教学とは関係なくありのままに見えると。でもまだそこまではいっていないと。当然それは教えをもととするしかないんだね。教えをもととして世の中を見る。教えをもととして世の中を、なんていうかな、識別すると。で、それがインプットされます、またね。「ああ、なるほど、これはこうなんだ」――その考え方がまたインプットされる。こうしてわれわれの心は正しい方向性にグーッと向いていくわけだね。
 まあ、これはいろんな――すべてそうです。すべて、いろんな現象、いろんな経験を――つまり経験っていうのは、経験自体はただの経験であると。それをどうアウトプットしインプットするかが重要なんだね。うん。
 例えば人から嫌なことをされたときに、それを、「わたしの権利が阻害された」と思うのか、「カルマ落ちた!」と思うのか、「グルの愛が来た」と思うのか。ね(笑)。全然違うでしょ? つまり後者にいくほど、その人本人が受けるメリットは大きい。「阻害された」とか思ってたら損です、逆に。せっかくこの肉体を使って――肉体がさ、自己を犠牲にして(笑)、痛めつけられるっていう犠牲をして変革のチャンスを与えられたのに、「阻害された!」と思っちゃったら、逆にそれでエゴ強まっちゃうよね。「この肉体の苦しみなんだったの?」と(笑)。ね。肉体が今叩かれたおかげでちょっと解放されるチャンスだったのに、肉体が叩かれたおかげでエゴ強まっちゃったと。逆じゃないですかと。でもわれわれに教えが入ってなかったら、もう全部そうなってしまう。
 だから、繰り返すけど、教えによって、一切はカルマの浄化であると。あるいは一切は神の愛であると、グルの愛であると。あるいは一つ一つの現象を細かく教えによって見ると。例えば誰かを客観的に見たとしてもね、普通だったら、例えばある人が煩悩を満たして喜んでると。普通は「ああ、うらやましい」と。「おれもああなりたいな」――でも教えが入ってると、「ああ、ほんとにあれはかわいそうである」と。「あのようにしてまた心のとらわれを増やしてしまったら、将来より多くの苦しみを味わわなきゃいけない」。あるいは、ある人が悪業を積んでると。それも場合によってはうらやましいと思うかもしれない。「あんな悪いことやっちゃって得していいなあ」って思うかもしれない。でも真理から見たら、「ああ、また彼は悪業を積んだ」と。「これによって彼が受ける将来の苦しみは計り知れない」と。「なんて哀れなんだ」と。「なんとかして彼が修行の世界に入ればいいな」と。あるいは「わたしがそれを手助けできるように頑張ろう」とかね、こういう目で見ると。そうすると、その人の見る世界は――例えばその人が菩薩道をしっかりと学び、そういう目ですべてを見ていたら、その人がどこにいようと、その世界は菩薩の世界に変わっていくんだね。
 もしその人がエゴに満ちていたら、その人がどこにいようと、究極的にいえば地獄です。すべては地獄しかない。「わたしが」「わたしがこうされた」「わたしの思いがまた叶わなかった」「またあいつは嫌なことやった」――これ地獄でしょ(笑)。ね。これはもう地獄でしかない。でも、もし四無量心に基づいた思いでいっぱいだったら、同じ経験をしていても、その人の世界は菩薩の世界です。あるいはバクティ的に、「ああ、すべては神の愛だ」「神の愛だ」ってやってたら、これはこれでもう至福ですよね。客観的に見たら、あの人は誰かにいじめられたとか、なんかこういう損をしたとか見えるかもしれないけど、その人のいる世界は至福であると。これはまあ発展的な四念処っていうか、発展的な、聖なるデータのアウトプットとインプットね。うん。
 はい、これが――ちょっとまとめるけども、四念処、あるいは四念処だけじゃなくて、教えに基づいてすべての経験を分析し、そして教えどおりの見方をし、それを経験として根付かせる。この繰り返しね。
 だからこの場合、この正智っていうのは、それがちゃんとできてるかどうか。つまりわたしは――今いくつか言った、基本的な教え、そして菩薩道的な教え、そしてバクティ的な教え、どれでもいいんだけども、聖なる見方で自分の経験を見ていられただろうか、見ていられるだろうかと。ちょっと凡夫的な、あるいは地獄的な見解に陥ってないだろうかと。これを、常に自分で自分を観察し続けるんだね。これが二番目の意味の念ですね。

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