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解説「菩薩の生き方」第十六回(2)

 はい、これは前に『ラトナーヴァリー』の勉強会でもやったかもしれないけど、復習の意味も込めて、ちょっと見ていきましょうね。
 ナーガールジュナは『ラトナーヴァリー』の中で、「この二十の菩薩の誓願の詩を毎日三回唱えなさい」と言ってますね。
 はい、じゃあちょっと見ていくと――

 仏法僧と菩薩とに恭敬をなし、帰依して、それら供養するにふさわしい人々に、わたしは礼拝(らいはい)を捧げます。
 悪から退き、すべての功徳(くどく)を良く守り、すべての人々の功徳をことごとく賛嘆します。
 私は頂礼合掌して、正覚者方に、法輪を転じて世界を安らかにしてくださるように、と請願します。
 このようになされた功徳や、自らがすでに行なった、また未だ行なっていない功徳によって、すべての衆生がことごとく無上の菩提心を起こしますように。

 はい、この辺は読んだとおりだから分かりますね。まあ、まさに、まずはしっかりと帰依の教え、あるいは賛嘆や、教えの請願等を唱え、そしてそれらによって、あるいは今まで自分がなしてきた、これからなすであろう功徳によって、すべての衆生がことごとく無上の菩提心を起こしますように、と。
 はい、ここからずーっと願いが続いていくわけだけど、まず「すべての衆生がことごとく無上の菩提心を起こしますように」――これが一番最初にきてるわけだけど、つまりこれが、この菩薩道の素晴らしさ――これも何回か言ってるけどね、つまり、「みんなが幸せになりますように」と。これはもちろんオッケー。でも幸せっていうのは非常にあいまいですよね。いろんな段階の幸せがあると。あるいは「みんなが解脱しますように」と。これもオッケー。当然、解脱イコールこの輪廻からの解放だからね。そういうこともいろいろ書いてあるわけだけどでも、トップに、一番最初にきてるのが、「みんなが無上の、つまり最高の菩提心を起こしますように」と。それこそが真の願いなんだと。
 つまり、あの人やこの人やあの人、誰々さんが――もちろん段階があるからね、まずはあの人たちも徳を積んで、しっかりと現世的にも幸せになってもらえますようにと。つまりみんなまず徳がないから苦しんでると。まず徳を積んでもらって、まずは心の豊かさや、ある程度の徳の喜びを味わってほしいと。それはあるかもしれない。でもできるならば、そんなものは無常だし、この世の喜びの裏には苦が潜んでるから、早くみんな真理に気付いてもらって修行してほしいと。そしてできるならば解脱してほしいと。で、できるならば、ただ解脱するだけではなくて、菩薩になってほしいと。
 つまり、いつも言ってるけどさ、菩提心あるいは慈悲の教えっていうのは、ベーシックに言うと、まず当然自分と他者を同じに考えなきゃいけないわけですね。自分はいいけどみんな駄目だ、じゃ当然駄目なわけで。で、その観点からいうと、菩薩っていうのは菩提心の素晴らしさを分かってるんだね。つまり、みんなもそうかもしれないけど、それがどれだけ心に根付いてるかは別にして、われわれの智性は気付いてる。つまり、この世で現世的な幸福を追い求めたってしょうがないぞと。ね。それは無常であって、苦しみであって、ただ苦しみをごまかしてるだけだと。結局のところは、覚醒し、解脱するしかないんだと。しかし実はその解脱っていわれる、つまり高々心を止めてニルヴァーナに入る――これは大変味気ないものであると。それから、自分だけがそうなったとしてもそれでいいのかと。自分と縁のある多くの衆生が苦しんでて、それを放っとけるのかと。いや、できないと。あるいは主、わたしの愛する至高者、主のご意思はどうなんだと。ね。それらを考えた場合、わたしはただこの世を捨て、涅槃、ニルヴァーナに安住するのではなくて、みんなを救う存在になりたいと。あるいはみんなを救う神の道具になりたいと。このように考えると。そして、できるならばこの宇宙の一切衆生、つまりすべての衆生がこの宇宙から解放されるまで、つまり完全な幸せに至るまで、そのお手伝いをし続けたいと。ね。一人でも残っているうちは絶対その救済の修行をやめないと。このような誓い、このような思いを持つと。で、このような思いを持つ者を菩薩といい、そしてこのような思いを、最初はエゴもいっぱいあるけども、なんとなくそういう思いを志として持ち、それをどんどんどんどん自分の中で根付かせていって、で、それがほんとに自分の中でいっぱいになったときには、まあ逆説的ですけども、その人こそが最高の幸福、最高の至福を得ると。
 もちろん、そのためにやってるわけじゃないんだけど。自分の現世の幸せを捨て、それどころか解脱の幸せさえも捨てて、ただただみんなを救う道具になりきろう――この道を行く者こそが最高の解脱を得ると。ね。逆説的ですけどね。
 で、それを皆さんは、前生からの縁によって、まだそれを悟ってはいないけども、なんとなくそれに気付き、そしてその教えを受けてると。そこで、「そうだ」と。「菩薩道こそが最高である」と。「よってわたしは菩薩道を歩みたい」っていう気持ちが、皆さんの中に少しあるかもしれない。で、そこまで分かってるんだったら、当然菩薩の気持ちとしては、それをみんなにも向けるわけだね。みんな、これこそが最高だよと。だからみんなもそうなってほしいと。みんなへの願いとしては、「ああ、みんな早く解脱してほしいな」――これもあるかもしれないけども、ほんとの本音を言えば、みんな早く菩薩になってほしいと。この道こそが最高なんだと。この道こそが、本人にとっても最高の喜びの道なんだと。そうでないと、ほんとの意味での覚醒はない。
 この辺は事実なんだけどね。事実なんだけど、論理的に言うのは難しいんだけど。われわれがほんとに菩提心に目覚め、救済の、あるいは慈悲の道を歩まない限りは、真の覚醒はそこには訪れない。よって、それをなんとなくでも分かってる者は、当然それをみんなにも願うわけだね。
 だから、もう一回言うけども、ただ単純に「みんな幸せになりますように」じゃなくて、あるいは「みんな解脱しますように」じゃなくて、「みんな菩薩になりますように」と。「みんな菩提心を持ちますように」と。あの人もこの人もあの人も、さあ、わたしはみんなを完全に救うまでは輪廻から離れず、修行をし続ける救済マシーンになろうと。そのような思いをみんなが抱きますようにと。これが第一の菩薩の願いっていうことですね。

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