解説「菩薩の生き方」第十四回(3)

何度も言ってるけど、新しい人もいるのでもう一回言うと、わたしの一つの経験としてね、まあ、これはちょっと菩薩、菩提心とはちょっと違う話ですけども――昔、正月にね、ある占いを見たら、中国の占い、まあ算命学かなんかを見たら、「徹底的に人にばかにされなさい」と。そして「徹底的に自分の心を傷付けなさい」っていう、なんかそういうのが出てきたんだね。で、ただそれは実は、パソコンの占いだったんだけど、データが間違ってたっていうのがわかった。だからその占い自体も間違いだったんだけど、でもわたしはそれをとても気に入って、その言葉を気に入ってね、「お、かっこいい」と思って(笑)。徹底的に人にばかにされると。そして徹底的に自分の心を痛め付けると。これは非常に修行者的であると考えて、その年の、まあ正月だったんで、正月の一つの誓いっていうか決意みたいにしたんだね。「よし、今年は徹底的に人にばかにされる」と。「徹底的に自分の心を傷め付ける」と。
で、そのように思ってると、前にも言ったけど、結構苦しみがなくなるんです。つまりこれが人間の心の面白いところで、つまり普通の人は、あるいは皆さんもそうだけど、「修行者だ!」とか「菩薩だ!」とか言いつつ、ほんとの本音を言うと「できるだけ苦しみたくないよ」(笑)。「できるだけ安楽でいたいよ」っていうのがあるんだね。だからこの「できるだけ安楽でいたい、苦しみたくない心」にちょっと苦しみが来ると、まさに腫れ物に触るような感じだから、ウワーッてなっちゃう。つまり自分の最初のセッティングが非常に、快楽、あるいは苦しまない方にすごく偏ってるから、その状態でちょっと苦しみが来るとウワーッてなってしまう。でもわたしの今の話みたいに、もともと苦しみに自分の希望をセッティングすると――もちろん、それは恐れもちょっとあるわけだけど、恐れがありつつも、一応覚悟として、「徹底的に苦しめるぞ!」ってやってると、普通の人が苦しむような苦しみが来ても、「徹底的に!」ってやってるから、あんまりそうでもないんだね。覚悟ができちゃってるから。覚悟っていうか、結局相対的な話だからね。相対的に、自分は何を望んでるのか。これくらい苦しみたいと思ってるのか。これくらい快楽を得たいと思ってるのか。その自分の基準によって、実際の幸不幸の感覚が変わってくる。だから逆に、もう一回言うけども、もう徹底的に苦しめると。あるいは徹底的に人にばかにされるっていう覚悟と決意を持って生きてると、日常生活のほとんどのことは、逆にちょっと安楽に感じてくる(笑)。「まだ足りない」と。「なんだこの生ぬるい世界は」みたいな感じで(笑)、感じてくるんだね。
ただまあわたしは、神の祝福があったみたいで、そんな感じでいたら、逆にどんどん日常で苦しいことが多く起きるようになっていって。もうとんでもない苦しみの世界にどんどん放り込まれていって。で、最後の方は、「ちょっときついな」と(笑)。徹底的にばかにされるとか、徹底的に自分を苦しめるとか言ってたけども、もうちょっと洒落になんなくなってきたと。で、最後の方はもう、なんていうか、ひん死の状態みたいになったわけだけど(笑)。そういう、一つの例ね、これはね。
で、わたしのこのときの場合は、まあ菩薩っていうよりは修行者として、つまりミラレーパのように、あるいは過去のさまざまな厳しい修行者のような道を行くと。その場合は当然、今言ったようなね、徹底的に人にばかにされる、あるいは徹底的に自分の心を苦しめるくらいの覚悟が必要だっていう気持ちでやったわけだけど。で、この『入菩提行論』の場合、それプラス、今言った菩薩の心も入るわけですね。だからこれはもちろん素晴らしいし、同時によりやりやすいと思う。実際にね。ただ自分の修行者としての厳しい心のことだけじゃなくて、みんなへの愛、つまりわたしは菩薩なんだからと。
もちろん、それぞれの段階があるわけだから、みんなが今、自分には厳しく、人には優しく、っていう段階じゃないかもしれない。みんなも修行者と言いつつも、まだまだエゴもあるだろうと。で、エゴを発散したいときもあるだろうと。だったらわたしを使ってくれと。ね。わたしをばかにしたり、わたしにいろいろ苦しみの攻撃をしてくるのは全くかまいませんと。だってそれがわたしの求めてる道ですからと。完全に一致すると。相手がまだそういう段階で、相手はそれを発散したいと思っている。わたしは菩薩の道を行きたいと思ってるから、自分をいけにえにしたいと思ってる。これは完全に一致ですよね。どこにも、なんていうか(笑)、怒ったり不満を言ったりする理論はない。完全に一致(笑)。完全に需要と供給の一致と。だからそれを、繰り返すけど、常に考える。ね。すぐ忘れるから。常に考える。
考えてるけど心が追い付かなくて苦しむ――これはしょうがない。これはしょうがないけども、そうじゃなくて、まず忘れるのをやめる。常にこの菩薩としての気持ち。つまり、何かあったときこそ、人に何かされたとかいうときこそ、その気持ちを思い出すと。
ただね、例えば具体的にここでいろいろ書いてあるけども、もちろんケースバイケースではあるよ。ケースバイケースっていうのはさ、例えば皆さん道を歩いててね、なんか殺人犯がやって来て、皆さんをブスブス刺そうとしてきたときに、「わたしの体をどうぞ」とか、それはちょっと無智です。これはラーマクリシュナも言ってるように、それはケースバイケースのところがある。つまりある場合には――つまり蛇がね、噛み付かないまでも、脅した方がいい場合もあると。それはそこでそれを相手にやらせても相手に悪業を積ませるだけだと。で、自分にとっても、例えばそこで自分が意味なく死んじゃったらさ、せっかくのこのダルマとの縁が台無しになってしまうと。だからその辺はケースバイケース。例えば皆さんが犯罪に遭ったときに、すべて明け渡せ、とまでは言わない。しかし逆に言うと、それほどではないいろんな日々の現象っていろいろあるわけですね。日々の法友や、あるいは皆さんの家族や、あるいは仕事場でのいろんな他者にエゴをぶつけられる場面があると。そんなことはどうでもいいじゃないかと。それはもう完全に菩薩の修行としてこっちが望んでることだし、あるいは相手への慈悲としてこっちが望んでることだし、これは完全に一致することなわけだから、全く問題ないと。