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解説「菩薩の生き方」第十四回(2)

【解説】

 この一連の美しい詩には、シャーンティデーヴァの並々ならぬ覚悟と、海のように深い慈悲心が感じられますね。
 自分はそもそも解脱(ニルヴァーナ)を求めているんだと。ということは、自分は何も要らないはずだと。この体も、財産も、快楽も、私には一切必要ないんだと。だからそれらを、衆生のためにすべて使うのだと。

 それは、可能ならば、飢えた人々のための食べ物にさえ、私はなりたいと。そのような本当の覚悟で、自分は自分の身体その他を、衆生に与えたんだと。与えたということは、衆生の好きなように、それらを使ってほしいと。皆さんの幸福のために私の身体その他が使われるならば、何なりと、使ってくれと。

 私は完全にそれらを衆生に譲り渡したのだから、私は私の身体その他が衆生によってどんな目に合っても、全く文句は言わないし、全く干渉すべきことではないんだと。衆生がそれで幸せならば、何をされても、私は全くかまわないんだと。

 このような悲痛な――いや、シャーンティデーヴァは悲痛だとは思っていないでしょうが――普通の人から見たら壮絶なとも思える覚悟で、自分の自我を、衆生の幸せのために譲り渡す誓いを、シャーンティデーヴァは為しているわけです。

 はい。素晴らしい、美しい部分ですね。ここに書いてあるように、まあ、これは、なんていうかな、修行者あるいは菩薩道を行く者の、まあ、原則的な発想ではあるわけですけども、そもそもわたしは、ニルヴァーナ――ニルヴァーナっていうのも一つの言い方ですけども、つまりこの世俗を越えて真実をつかむことを目指してると。もちろんその先には、それによってみんなを救うとか、あるいは神の道具になるとかあるけども、まず原則として、自分がしっかりと覚醒しなきゃいけないんだと。で、この覚醒っていう意味は、繰り返すけども、今われわれが間違ってつかんでるエゴ、間違ってつかんでるこの世の世俗的な執着、それを全部捨てるんだと。これは当たり前の原則であると。放棄すると。わたしはエゴを放棄しますと。あるいは「わたし」っていわれるこのアイデンティティーを全部放棄しますと。あるいはわたしが執着してるもの全部放棄しますと。で、放棄することによって、やっと真実をつかむことができる。あるいは「わたし」の本質である真我、あるいは仏性っていうものをつかむことができると。まあここでは「ニルヴァーナ」っていう言い方してるけども、これが原則ですよね。
 で、この原則は、修行者の皆さんはわかってるはずなんだけども、しかしすぐに忘れてしまう。で、この原則をさらに発展させて、ここではシャーンティデーヴァはうまい言い方をしてるんだね。
 もう一回言うけども、このシャーンティデーヴァの『入菩提行論』の素晴らしさっていうのは、まあ、いろんなところでわたしも解説でも書いてあるけども、自分のエゴに対する徹底的なねじ伏せなんですね。エゴっていうのは、例えば教えがパッて入ってきたら、もう巧妙に「でもこれはいいんじゃないか」みたいな感じで、巧妙に入ってこようとする。で、それを「駄目だ」と。つまり逃げ道をなくすんだね。
 はい、ここにおいても――もう一回言うよ――わたしはニルヴァーナ、あるいは真実の悟りっていうのを求めるはずじゃないかと。で、そのためには当然、エゴ、あるいはさまざまなアイデンティティー、自分がとらわれてるものを捨てなきゃいけないんだと。で、一つの面白い発想として、捨てるんだったら、それは人にあげればいいと。ごみ箱に捨てるんじゃなくて(笑)。ここでまあ、「それを与えない手はない」って書いてあるけども、捨てるんだったら、まだそれを必要としている人に与えたらいいじゃないかと。
 で、ここの発想っていうのは、最初の方の、「病人の医薬であり医者でありたい」――この辺はもうちょっと、なんていうか、ちょっと夢想的な――夢想っていうのは、ちょっと現実的にすぐにはあり得ないことですよね。すぐにはあり得ないことだけども、自分の心構えとして、みんなが必要としてるならば――つまり、いろんな段階の人がいるから、もちろんみんなが今すぐ解脱すれば最高ですけども、そこまではいかない。そうじゃなくてまだ、目の前のいろんなことで苦しんでいたり、いろんなものを求めてる人がいる。その人たちのためには、例えばみんなの薬になりたいとか、ほんとにみんながお腹すかしてる飢饉のときには、自分が食べ物になりたいとか。でもこの辺はつまり、現実的にそういうことはすぐにはないだろうけども、一応菩薩の心構えとしてこういうことを言ってると。しかし後半というか途中からは、もうちょっとリアリティを持った現実的な話になってきます。
 現実的な話っていうのは――もう一回言うよ。ちょっと丁寧にっていうか、復習するけども。ちょっと結論から言ってしまうと、わたしと、他者っていうかな、衆生の利益――利益っていうか、そうだね、利益を求める心、あるいはギブアンドテイクの心は、完全に一致してるんだと。一致してるっていうのはどういうことかっていうと、わたしはエゴを捨てたいと思ってると。で、他者はって言った場合、ここでは、なんていうかな、もちろん修行者も含め、修行してない人も含めて――何回か皆さんにも説明したけども、例えば怒りっぽい人がいるとしてね。まあ怒りっぽいっていうか、すぐに人を攻撃する人がいるとして、これは当然、その人自身が苦しいと考えた方がいい。だって苦しくなかったら攻撃しないでしょ(笑)。自分が至福で満たされてたら、人を攻撃しないよね。どうしようもない自分の中の心の器の狭さがあって、なんかあるとストレスが溜まって、それで人を攻撃すると。あるいは心無いことを言うと。あるいは、人の気持ちを考える余裕がなく、人に何か悪いことをすると。で、これを、凡夫の目で見た場合は、もちろん、「おれだって苦しいのに!」(笑)。「おれだってこうなのに、なんだあいつは!」ってなるわけだけど、菩薩は、あるいは修行者は、そもそもこの、あっちが攻撃しようしてくるエゴを捨てたいと思ってる。捨てたいと思ってるんだから、あげるのは素晴らしいし、で、それだけじゃなくて、もうちょっとリアルに言うと――「捨てたい」と思ってる。「おれはエゴを捨てたい!」――でもそんなこと言ったって、こう座ってて捨てられないよね。捨てられる人もいるかもしれない。瞑想が進んでパッてエゴを捨てられるかもしれないけど、そんなうまくいかないよね。「おれは今日からエゴを捨てた! ウッ! ハイ、捨てた」とか(笑)。
 昔わたし、そういうことをよくやってたことがある。まだ、そうだな、中学生とか高校生のころに、自分なりに独学でヨーガとか始めてね。あるいは仏教の瞑想とか始めて、やっぱりエゴ、あるいは煩悩を捨てなきゃいけない。原則はわかったと。で、でもいろいろあると。「もう捨てる!」と思って、「ウー……ン! はい! 捨てた!」って感じなんだね(笑)。でもすぐなんかあるとワーッてなっちゃって、そうするとまた座って「今日からだ」と(笑)。「はい、この瞬間から……ウーッ、あ、捨てた!」――こういうのをよくやってた覚えがあるけど。で、これはこれでもちろん決意としていいんですけども、実際には「ウ!」ってやって捨てるっていうのはなかなか難しいと。しかし、誰かがほんとに自分のエゴに抵触する部分を攻撃してきて、で、そこで自分が、このような考え、つまり、「いや、わたしは菩薩である。」「あるいはニルヴァーナを求めてるわけだから、エゴを捨てることがわたしの願いなんだ。だからそれを求めてる人、エゴへの攻撃を求めてる人にはどうぞどうぞってやんなきゃいけないんだ」って気持ちになれたら、相手の攻撃が自分のエゴを捨てるきっかけになるよね。つまりこっちが求めてたことなんです。で、相手はそれを求めてる。相手はまだ段階が低くて、エゴによって、つまり相手のストレスによって、人のエゴを攻撃したいと思ってる。こっちははっきり言うと「攻撃されたい」と思ってるんです。もうこれ、一致するんです、ほんとは。菩薩の心と迷える衆生の心は一致するんです(笑)。あっちは攻撃したいと思ってる。こっちは攻撃してほしいって思ってる(笑)。一致するはずなんだね。でもこの菩提心っていうか修行者としての心を忘れると、「なんだおまえは!」ってこっちもなってしまうと。これは非常に情けない。
 繰り返すけども、もちろんこれは菩薩じゃなくても、修行者っていうのはもともとエゴを捨てるんだと。だからエゴを壊してくれる存在っていうのは当然、もう願っていた存在であって。で、菩薩っていうのは、さらにもう一歩進んで、みんなの幸福のためならば、どうぞわたしのエゴを攻撃してくださいと。あるいは、どうぞ、わたしのいろんなものを好き勝手に使ってくださいと。これはいろんな意味でね。
 いろんな意味っていうのは、もう一回言うけど、例えば――だからいつも言うけども、でくのぼうが一番いい。でくのぼうっていうのはさ、ちょっとリアルに言うとさ、「でくのぼう!」ってやってる人がいるとしてね。一つのタイプとして。でくのぼう。例えばこっちが、ストレスでいっぱいの人がいるとして、で、このストレスでいっぱいの人は、そうだな、誰にでもぶつけるわけじゃないよね。やっぱりある程度は計算がある。「ワーッ!……でもあの人にこんなこと言うと怖い。あとが怖い」(笑)。あるいはあの人に言うと、ちょっとこの人心弱いから、やっぱりちょっとストップがかかる。なんかちょっとかわいそうな気がする。でもでくのぼうはオッケーと。「あいつには言ってもいいだろう」と。だから、のび太みたいな感じ(笑)。ジャイアンがのび太にやるみたいな感じで、「あいつにはいいだろう」と。この役目を受け取ると。で、もちろん実際には、この菩薩として、でくのぼうの道を行こうとする者は、当然、志はそうだったとしても、実際にはそこまでいってないかもしれない。実際にはそこまで――こうニコニコしてね、みんなからの攻撃を受け止めて全く心が動じないってなってればいいけども、なってないかもしれない。なってなくてもその志を胸に、つまり背伸びする感じで、いつもニコニコと受け取るんだね。「ああ、どうぞどうぞ。いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい」と。ね(笑)。「はい、買いますよ、買いますよ」と。――なんか競りみたいな感じね。「はい、買い、買い、はい、苦しみ買います、苦しみ買います。こっちが買いますよ」って手を上げ続けると。で、これはもちろん、繰り返すけども、実際には心が成熟しないと完全にそれはできないかもしれないが、少なくともその志を忘れるなっていうことです。
 で、その志を忘れないためには、もう一回言うけど、シャーンティデーヴァが説いてるような、あるいはシュミレートしてるような、菩薩の意識、菩薩の理念だね。理念っていうか、なんていうかな、理論っていうか。菩薩とはこういうものですよと。だから、それが当たり前なんですよと。あるいはここでの願いの言葉を自分に当てはめてっていうか、自分の願いとして言うと。いいですか。
 「この私の身は、すべての生類に(彼らの)欲するままにゆだねられた。」
と。
 「彼らが常に我が身を打つもよし、罵(ののし)るもよし、ゴミをあびせるもよい。玩(もてあそ)ぶもよし、嘲笑(あざわら)うもよし、ふざけるもよい。私は身体をもう彼らに与えてしまったのだ。」
と。
 「どうしてそれに私が思い煩う必要があろう。」
と。
 つまりこれは、菩薩の誓いっていうかな、願いとしてそういうのがあるわけだね。「わたしのこの身を捧げます!」と。それはもちろん、バクタも――バクタは「神に捧げます」と。菩薩は「衆生に捧げます」と。で、こういうかっこいいことは言うわけだけど、でも現実的には全然捧げてないと。よって、現実的にも捧げられるように、常にそういうことを考える。つまり曖昧にまず――曖昧な決意でも素晴らしいんですよ。まず曖昧に「この身を神に捧げます」とか「この身をすべての衆生に捧げます」って言える人は、これはもう菩薩、菩提心が少しある人だから、この時点で素晴らしい。素晴らしいけども、多くの場合、そこで終わってしまうんだね。なんとなく、もう壮大な気持ちで(笑)、「この身を衆生に!」とか言って、ちょっと現実に帰ると「なんだ、このやろう」と、こう始まるわけだね。このギャップを埋めなきゃいけない。
 だからこの、「この身を捧げます」ってまず言ったのはオッケー。これはオッケーと。で、第二段階で、「ということはどういうことかな」って考えなきゃいけない。この身を捧げたっていうことは、もうみんなにその権利があるわけだから。まさにここで書いてあるように、この身をみんなが殴ろうが、ののしろうが、ばかにしようが、なんの問題もない。だってみんなのものなんだから(笑)。もうわたしの手を離れたと。このわたしっていう存在がわたしの手を離れたと。もちろんわたしの本質は真我であり、あるいは仏性であり、あるいは神のしもべでありっていう本質はあるわけだけど、じゃなくてこの本質ではない、今まで自分が持ってたアイデンティティーとしてのこの自分はみんなに捧げちゃったと。だからこいつを誰が攻撃しても、あるいはもてあそんでも、嘲笑っても、それはもう、だって持ち主のものなんだから、なんの関係もありませんと。この考え方ですね。この考えを徹底し、考え、自分に当てはめ、リアルに考えていくと。

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