解説「菩薩の生き方」第十二回(3)
【本文】
昼夜絶え間なく寿命はますます減少し、しかも増加の生ずることはありえない。私の死なないことが、どうしてありうるか。
ここに寝床に伏しながら、また親戚の間にありながら、私はただ一人で断末魔等の苦しみを忍ばねばならない。
ヤマ(閻魔)の使者につかまれたときに、どこに親戚が求められ、友人が求められるか。ただ福善のみが、私を救いうる。しかも私は、それを修めなかった。
師主よ。無常の生命に愛著して、この来るべき悲惨事を知らず、怠惰なる私は、多くの罪悪を犯した。
今もし、(何かの刑を宣告されて)手足を切断されるために引きたてられていくとしたら、人は気力を失い、のどは渇き、目はくらみ、世界を転倒して見るだろう。
ましてや、恐ろしい形相のヤマの使者に駆使せられ、大いなる恐怖の炎に呑まれ、糞便の排泄にまみれるにおいては、なおさらであろう。
臆病なまなざしで四方に救いを求めるとき、どんな善人が、この大危難から私を救うであろうか。
四方に救いがないのを見て、私が再び惑いに落ちたとき、この大危難の状態において、私は何をなしうるであろうか。
まさに今私は、大いなる力がある世界の師主、世界救済のために精勤し、一切の恐怖を取り除く勝者(如来)に、帰依し奉る。
また彼らが証得し、かつ輪廻の危難を滅ぼすところのダルマに私は帰依する。菩薩方に対してもまた、心から帰依する。
危難におののく私は、サマンタバドラに我が身をささげる。また妙音(マンジュシュリー)に対し、自ら我が身をささげ奉る。
また常に慈悲に満ちてあり給うローケーシュヴァラに向かって、私は恐ろしいままに、苦悩の声をあげて呼びかける。悪人の私を守りたまえ。
さらに聖なるアーカーシャガルバとクシティガルバとに、またすべて大慈悲心あるものに、私は心から救いを求めて呼びかける。
また、それを見ればヤマの使者等の悪鬼が直ちに恐れて四方に逃れ去る、ヴァジュラダラに私は帰依する。
これまで私はあなた方の言葉にそむいてきた。しかし今、危難がわかったので、恐ろしいままにあなた方に帰依を表する。速やかに危難を除きたまえ。
一時的な病にかかったときですら、人は恐れて医師の言葉にそむかないであろう。まして、四百四病におかされるにおいては言うまでもない。
それは、その一つによってもジャンブ州(人間界の一つのカテゴリー)すべての人が滅び、しかもそれには、治療の薬がどこにも得られない。
ただしここに、一切の苦悩を取り除く全智の医師がいる。私がその言葉にそむくとは。ああ愚かしき限りの私なるかな。
他の険峻(けんしゅん)を前にすれば、私は極めて注意深くそこに立つ。まして、永く逃れがたい千ヨージャナの険峻(地獄)を前にしたならば、なおさらである。
今にも死が起こらないか。私は安閑としておるべきではない。終局は必ず来る。そのとき私は存在しないであろう。
誰が私に恐怖からの解放を与えるか。いかにして私は苦しみを逃れえようか。必ず私は存在を失うであろう。どうして私の心は、安住することができようか。
先に享受してすでに滅び去り、また、それに愛著して私が師の言葉にそむいたその享楽――それから今、どんな価値が私に残っているか。
この生の世界を捨てて、また親戚と知己を捨てて、ただ一人どこに私は行くであろうか。すべて愛しいもの、憎らしいもの、共に私に何の役に立とう。
不浄行(悪行)によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れうるかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことだ。
愚かしく迷える私は、いくつもの罪を重ねた。それは自性上呵責せらるべき(十不善業)と、ブッダによって施設せられた呵責とである。
これなる私は、苦しみを恐れ、師主の前に立って、合掌をささげ、幾度も平伏して、このすべてを告白する。
導師よ、罪過を罪過として受け取りたまえ。世尊よ、かような不善を私は再び犯さないであろう。
【解説】
これで第二章は終わりです。この部分も読むだけでも心に響く部分ですが、意味がわからない人や勘違いする人もいるかもしれませんので、ポイントのみ解説します。
死を迎え、そして生前に積んだ悪業によって地獄に落ちようとするとき、誰もその人を救うことはできません。誰も身代わりになってくれる人はいません。それは不可能なのです。唯一つ、自分を救ってくれるのが、福善、つまり自分の功徳、良いカルマ、善業です。
にもかかわらず、前回も書いたように、懺悔によってリアルに検討するなら、我々はほとんどの人が、多くの悪業を積み、善業はほとんど積んでこなかったのです。唯一我々を死と地獄の苦しみから救いうるものを、我々は積み上げてこなかったのです。死と共に消え去るお金や名誉やプライドや愛情などはたくさん積み上げてきたのに。
そのようなことをリアルに考えれば考えるほど、我々はその恐怖におののき、そして偉大なブッダや菩薩方にすがらずにはいられません。そしてもちろん、我々自身の努力によって、善業増大、悪業浄化、そして死を超えた解脱の境地を得ることのみに、全力を尽くさずにはいられなくなるのです。
はい。ここもまあ、とても重要なね、素晴らしいところですね。ラーマクリシュナは、いつも言ってるように、例えばキリスト教が「わたしは罪人です、わたしは罪人です」って――まあ当時インドはね、イギリス支配でキリスト教が入って来てたので、そういったものに対してラーマクリシュナは否定してね、「そんなことばっかり言っててどうなるんだ」と。そうじゃなくて、「神への信を持ちなさい」と。もちろん罪は懺悔しなきゃいけないけども、一回懺悔すればそれで十分であると。そして主の、至高者の愛を、救済を信じれば十分である、という言い方をしている。
しかし実際にはその言葉を本当の意味で理解していないがために、また過ちに落ちてる人がいっぱいいると思うんだね。まあ結局、なんていうかな、無智な衆生と救済者との関係っていうのは、そういういたちごっこがある。救済者がバーッて説いたら無智な衆生が勘違いしたので、違う救済者が「いやあ、じゃあこれで行け」って言ったらそれもまた勘違いして(笑)、なんていうか、なかなかこう定まらないっていうかね。
だから、繰り返すけど、いつも言ってるけどカイラスではバクティヨーガと菩薩道っていうのは非常に強く推し出してるわけだけど、バクティヨーガっていうのはどっちかっていうと、やはりそういう感じで非常に楽天的であり肯定的であり、っていう部分がある。しかしそこを勘違いしてしまうと、ただの傲慢な、全然自分のけがれを顧みない人になってしまう。だからやはりこういった大乗仏教系の、この『入菩提行論』に代表されるような、しっかりと自分の罪を見つめて、それがいかにひどいものであるか、で、いかに自分がほんとにもう、なんていうかね、もう全力で修行しないと、もうどうにもならないようなものであるか(笑)、それをほんとに――だからその上にバクティが来るんだよ。
何を言いたいかっていうと、いいですか、これ、現実として、今ここにいる皆さんが持ってる悪業っていうのは、自分で考えれば分かると思うけども、もう、とんでもないです(笑)。もう普通、救われません(笑)。ちょっとこういう言い方するとあれだけども。まあ、全員じゃないよ。ここにいる何割かはもともと徳があるかもしれないけど、何割かは、もう普通救われせん(笑)。この時点で。この時点でもう駄目です。この時点で最悪の悪業を積んできちゃってる。で、それをまず徹底的に、良い意味でね、徹底的に後悔し、悔い、そして悔い改めようと考えると。で、それには、ここにも書いてあるように、これもわたし好きな言葉だけど、「不浄行(悪行)によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れうるかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことだ。」――これ、意味分かるよね。つまりほんとに謙虚に懺悔ができたならば、自分が積んできた悪業の一個一個を思い出してね、やばいと。やば過ぎると、これは。これはもう、地獄行き九割確定だろと。これはまず逃れられないと。で、しかし当然そんなのは嫌だと。そんなの嫌だっていうよりも、それは、もし特にその人が菩薩の発願やバクタの発願や、あるいは解脱の発願をしてる場合、それはとんでもないことだと。もちろんそういうのをしてなかったとしても、当然その苦悩っていうのはわたしは耐えられないと。それを本当にリアルに感じたら、もうそれで頭がいっぱいになるはずなんだね。もういかにしてこの悪業を浄化しようかと。もうそんな、ちょっと修行したぐらいじゃ駄目だと。
まあ、合宿のときにSさんの言葉として紹介したけど(笑)――来てなかった人もいるのでもう一回言うと、Sさんは表面的にはなんか「えー、バクティですか」とか言ってるんだけど、もう五体投地十万回終わってるんだね(笑)。で、ああ、十万回終わってすごいですねっていう話をしてたら、「いやあ先生」と。「十万回終わってすごいとかよく言われるんですけど、だってわたしが過去、過去世とかで積んできたかもしれない悪業に比べたらね、高々十万回ですよ」と。「何生も何生も悪業積んだかもしれない」と。「それに比べたら全然、十万回なんて、それで返せるとは思えない」みたいな言い方をしてて。で、それは確かにそうなんだね。そういう心構えが大事っていうか。でも人間っていうのはほんとに楽をしたがるから。
もちろんね、実際には、前にも言ったけど、この修行における、特に皆さんが与えられた修行っていうのは非常に祝福があるから、実際には数学的な一イコール一ではない。つまり十万回やったら十万回分の悪業が消えるっていうわけじゃない。もちろん倍増して消えます、当然ね。皆さんがほんとに信を持って一つ一つの修行をやったならば、何倍ものね、つまり数時間であっても、あるいは数百時間であっても、何生分ものカルマを浄化するかもしれない。だとしても、ですよ。だとしても、それを超えるぐらいの悪業がわたしにはあるんだと。これを超えるには、こんなものじゃ足りるはずがないと。常にこの、なんていうかな、謙虚っていうよりは現実的な見方ね。もちろん謙虚じゃなきゃいけないんだけども、別に盲目的に謙虚になれって言ってるんじゃなくて、現実的に考えると。現実的に考えて、今まであなたがやった修行で、あなたが過去あるいは過去世――過去世まで考えなくてもいいよ。もう今生だけでもいい、まずは。今生やったすべての悪業、それで浄化されたと思いますかと。思うとしたら相当無智だと。ね(笑)。自分でやってることを分かっていないと。
だからね、結局これには、そうだな、ジュニャーナヨーガが必要なんだけど。輪廻転生とかもそうなんだけどね。輪廻転生にしろ、あるいは自分のカルマの証智にしろ、そうですね、いくつかのパターンがある。一つはバクティヨーガ。バクティヨーガでいく場合ね、バクティヨーガっていうのはまさに信の道であると。信の道っていうのは、これはほんとは一番簡単でいいんですけどね。お釈迦様が言ってるんだから輪廻はあるんだろうと。そして、お釈迦様の教えやグルの教えに照らし合わせたら、わたしはほんとに大変な悪を積んできたと。この純粋な信によって、もうほんとにいてもたってもいられなくなり、修行にまい進すると。これは一番素晴らしいね。
そうじゃなくて、例えばクンダリニーヨーガ、あるいはラージャヨーガ等の道っていうのは、これは実体験の道です。これはもう、なんていうか、皆さんがしっかり修行をもしちゃんとやるならば、将来的にそれは経験できるかもしれない。つまり現実的にバルドを見ると。現実的に瞑想経験によって輪廻転生の秘密を知ると。で、それによって自分のカルマの状態も知り――この場合もほんとにそれを経験したら、みんな絶望に陥ります(笑)。わたし前にそういう絶望に陥ったことあったけども、ほんとに自分のカルマを見てしまったら、これ、もうあり得ないでしょと(笑)。もう笑えもしないね。うん。絶望もできない、ある意味。「やるしかない!」ってなる(笑)。絶望とか笑えるっていうのは、まだ余裕があるんだね。なんでもそうでしょ? 絶望できるときって、まだ余裕があります。例えば皆さんがさ、そうだな、なんか荒野とかに放り投げられてね、荒野で「もう食べ物もない! 何もない!」みたいな感じで絶望してるときって、まだ余裕があるよね。最終的には、ちょっとどうにかしなきゃいけないなと。絶望とか、何も考えてる暇はない。もうとにかく現実的に今この状況を何とかしなきゃいけない、っていうかたちになってくる。それと同じように、われわれがほんとに自分のカルマを知り、輪廻の仕組みを知り、ほんとに地獄もあるんだと、このままだとまずいんだっていうことが分かったならば、ほんとに、なんていうか死にもの狂いで、まさにここに書いてあるように、「一瞬一瞬昼夜、さあ、どうしようか」と。もうほんとに冗談じゃなく、ね、飯のことなんて考えてられないと。あるいは煩悩のことなんて考えていられないと。あるいは誰々さんがこう言ったとかそんなこと考えてられないと(笑)。とにかくこのカルマをどうすればいいんだ、っていうことで頭がいっぱいになる。で、これこそが「わたしにふさわしいことだ」ってシャーンティデーヴァは言ってる。
もちろんここで「わたし」って言ってるのは、シャーンティデーヴァは聖者だったからそれはもう超えてるでしょうけども、われわれのようなまだまだけがれた魂の立場に立って言ってるわけだね。それこそがわたしにふさわしいと。だってそれだけの悪業を積んできたわけだから。
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