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解説「菩薩の生き方」第十二回(2)

 はい、そして逆に、もっと肯定的な考え方がこの後半の話ね。つまり一期一会と。ほんとにわれわれは一瞬出会った、そして、じゃあねって言ったらもう出会えないかもしれない。
 まあ、わたしは、そうだな、よくここで武士とか侍の話とかをするけど、そんなに詳しいわけじゃないんだけど(笑)、実際どうだったかは別にしてね、だからイメージですけど、イメージでいうとさ、例えば、日本語の「さようなら」っていう言葉ありますよね。「さようなら」。英語で言うと「グッバイ」ですが(笑)。英語で、例えばグッバイとかグッドラックと言うところを、日本では「さようなら」と言うと。あれは、深い意味はわたしはもちろん知らないけども、あの言葉から受ける印象っていうのは、まあ、「さよう」っていうのはつまり「左様か」とかの「さよう」ですよね。「左様」。「おお、Y君来たのか」「左様」と(笑)。で、「さようなら」というのは、つまり何かがあって、例えばみんなで会いましたと。で、終わりましたと。で、「左様なら」と。つまり、「それでは」みたいな感じですよね。「そのようならば」っていう感じでパッと行くわけですね。この、なんか美しい潔さみたいなのがあるよね。なんていうか、粘着的じゃないっていうか(笑)。
 多分、武士の心構えとして、まあこれは一つの理想論だけどね、聞いた話では、武士というのは必ず毎朝新しいきれいな白装束とかを中に着るんだと。っていうのは今日殺されるかもしれないし、あるいは間違いを犯して切腹するかもしれない。だからその覚悟を持って必ず朝、家を出ると。つまりそういう、なんていうかな、例えばまあ実際にはルーティンとして毎日繰り返されるね、毎日城にお勤めに行ってみんなと顔合わせるわけだけども、普通にその日々が同じように過ぎていくように見えるけども、でも実際はそれは錯覚かもしれない。今日会った相手がもう二度と会えないかもしれない。今日会った相手と、ああ、ちょっと今日――よくそういう話ってありますよね。今日実は、今日会った相手に大事なことを伝えたかったんだけど、ちょっとまたあとにするかって思ってたらその日のうちにその人死んじゃったとか、よくそういう話あるよね。これはつまり、まるでこのわれわれの世界というものが、あるいは関係性っていうものが長く永遠に続くかもしれないっていう錯覚のもとからくる過ちですよね。
 ですからわれわれは、繰り返すけども、今この瞬間の出会いがいかに貴重かと、数学的にっていうかな、分析的に考えてもよく分かる。つまり魂っていうのは、なんていうか、もう数であらわせないぐらいの無数の魂があって。で、それぞれのカルマによっていろんな転生をしていて。で、転生だけじゃなくてそのカルマを消化するためにいろんなマーヤー、いろんな幻影の中でわれわれは生きていて。で、そのいろんな組み合わせの中で、一つの魂と一つの魂が出会うと。これは大変な奇跡であると。で、この奇跡的な出会いをさ、くだらないいがみ合いや、あるいはくだらない誰のためにもならない間違った執着や、あるいはくだらない無智なるやり取りで終わらせるなんていうのは大変な意味のないことであってね。
 繰り返すけども、われわれは今、一瞬出会ったんだと。そして次の瞬間、別れなきゃいけないかもしれない。まずこの感覚があれば、まず余計な執着はなくなるね。余計な執着はなくなる。つまり、これ、前にも言ったかもしれないけど、わたしよく、若いころに思索したんだけど、もし例えば自分が執着しそうな相手がいるとしてね、彼が明日死ぬと。そしてもう何カルパも会えないと。それがもし分かっていたら、多分執着しないと思うんだね。ほんとに分かってたらですよ。つまりわれわれの中に打算があって、期待があって、明日も会えるかもしれない。あるいはちょっと夢みたいな話で来世会えるかもしれないとか、いろんな期待があるから執着っていうのが生まれるんだけど、でももともとそうじゃないんだと、そんな永続した関係性はないんだということを完全に分かってたら――まあ、もうちょっと打算的に言うと、この人と明日もう別れることになり、そして、生まれ変わっても何カルパも会えませんっていう相手だったら、自分の中に期待がないから――つまり結局は執着も自分の欲望だからね。いかに自分の欲や寂しさを紛らわしてくれるかっていう意味で執着してるわけだから、それが全く期待できない相手だとしたら、絶対執着しない。
 例えばさ、アイドルとかにファンが執着すると。これはさ、はっきり言うと絶対結婚できないよね(笑)。まあ絶対じゃないけど(笑)。絶対じゃないけど、九十九パーセント、多分そのファンとかオタクとかがアイドルと結婚したりすることはあり得ないと思うんだけど、あり得なくても執着してますよね。これはなぜかというと、実は期待してるんです。潜在意識では「あるかも!」と思ってる(笑)。だって同じ地球に生きてるわけだから。同じ地球に生きてて同じ人間なわけだから。まあ自分が猿とかだったらちょっとあれだけど(笑)、同じ人間ですから。同じ人間で、オスとメスだったらあり得るかもしれないよね。だからそれは潜在意識がちょっと計算をしてしまっている。でもほんとのこと言うと、それよりも実はわれわれの人間同士の結びつきっていうものは、その無常性っていうのは確固としていない。
 これはちゃんと、なんていうか、ほんとはジュニャーナヨーガっていうか、分析、教えの分析を徹底的にやるならば、心はだんだんそれが分かってきます。でもそれがまだ分からない場合は、まずは、なんていうかな、そういうものなんだと。結局、あ、先生も言ってるし、お釈迦様も言ってるし、シャーンティデーヴァも言ってるように、人間の関係なんてものはほんとに無常であって。だから疎かにしなきゃいけないっていう意味じゃないよ。だから大事にしなきゃいけない。だからそれを執着とか嫌悪とか、そんなけがれたもので一瞬のこの貴重な出会いを無駄にしてはいけないと。
 まあ、最後にかっこ良く、「ただ聖なる三宝との絆だけを固く握り締めて」って書いてあるけども、われわれが永遠にすがりついていかなきゃいけないもの、それはまさに聖なる三宝であると。もちろんもっと言えば、至高者、あるいは仏陀、グルといった、われわれを導いてくださる聖なる一本のロープ、一本の命綱だけであると。
 この関係性だけは、実は無常じゃありません。それはなぜか分かるよね。つまり、これはいつも言ってる話になるけど、つまり「無常」っていう言葉っていうのは、結局この世は全部無常なんです。この相対世界は全部無常です。しかし、仏陀とか至高者とかそういった流れっていうのは、そもそもが相対世界を超えたところから来ている。言ってみれば、実はこの世には無常を超えたものはない。この世を超えたところにしかそれはない。で、この世を超えたところからやってきている光のマーヤー、光の導きが、皆さんの前に現われる至高者、あるいは仏陀、あるいはグルといったものであって。で、こういったものだけが、われわれにとっては無常ではない。そしてわれわれを、なんていうかね、真に利益のある、真の幸福に導いてくれる宝物であると。
 よって――繰り返すよ、人間関係において、もちろん一瞬一瞬を大事にして、素晴らしい、なんていうかな、相手のために、あるいは自分のために素晴らしい関係を確立すると。これは大事なんだけども、一切とらわれる必要はない。それは無常だから。じゃなくてわれわれが気にしなきゃいけないものは、無常ではない、そしてわれわれをこの無常の世界から引っ張り出してくれる、聖なるこの絆だけであると。だから逆にいうと、そうでないものであまりわれわれが、なんていうかな、意味のないエゴによって、いろんなね、人間関係にしろ、あるいはいろんな自分がとらわれてるさまざまなものにしろ、そういうことに時間や労力を使うことは大変な無駄であって。っていうのは、繰り返すけども、それらはすべて終わるから。終わったあとに残るのはただ悪いカルマだけである、という話ですね、ここは。

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