解説「ミラレーパの十万歌」第三回(2)
◎この世の安楽を避け
第三話 雪の山脈の歌
すべてのグル方に礼拝いたします。
ジェツン・ミラレーパがラシの雪山の地を訪れて、凶悪な悪魔たちを征服したという評判は広まりました。
ニャノン村のすべての人々は彼の後援者となり、布施と奉仕をしました。
その中にウルモという名の女性がいて、深い信仰を持ち、熱心にダルマの教えを求めました。
彼女にはジョウプワという幼い息子がおり、成長したら召使としてミラレーパにささげようと決意していました。
ミラレーパは村人たちによってニャノン・ツァルマに招待され、そこでは後援者のシンドルモによって世話をされました。ジェツンはその村にしばらくとどまっていましたが、すぐに人々の現世的な考えによって非常に心が暗くなりました。そして彼らに自己の不満を説明し、ラシの雪山に戻りたいと告げました。
村人たちは泣きながら言いました。
「尊師よ、この冬の間ここにお残りになって、われわれに教えを説いてくださるようお願いするのは、他の衆生たちの幸福のためではなく、ただ私たち自身のためなのです。あなたはいつでも、不吉な悪魔たちを征服することができます。春になれば、あなたの旅の準備もすべて整うでしょう。」
尊敬すべき聖職者のドゥンバ・シャジャグナ、そしてシンドルモは、特に熱心に請願しました。
「もう冬がやってきますから、そして雪山では、多くの困難や危険に遭遇するでしょう。どうかご出発をもっと後まで延ばしてください。」
彼らの返す返すの懇願も無視して、ミラレーパは出発を決意しました。
彼は言いました。
「わたしはナーローパの継承の息子だ。雪山の危難も、荒れ狂う嵐も恐れない。ずっと村にとどまっているよりは、死ぬ方がはるかにましだ。わがグル・マルパも、この世の安楽を避け、隠遁して自己の修行を追求せよ、とおっしゃった。」
そこで、村人たちはすぐにミラレーパの出発のための準備を整えました。
出発の前に彼は、
「冬の間にダルマの指導を求めて来るものがあれば、私は会おう」と約束しました。
ドゥンバ・シャジャグナ、シンドルモ、および他の四人の僧と在家の者が、送別会用の飲み物を持って付き添いました。彼らは丘を超えて、小さな平原に出ました。
はい。まあ、これはね、まずここまでは読んだとおりですが、この前の話、前回やった勉強会の中で、ミラレーパがね、その土地の悪魔たちを征服したわけだね。で、その評判が広まって、ニャノン村と呼ばれる村の人々にすごい信仰を受け、そしてまあ招待されたと。で、しばらくその村にね、ミラレーパも住んで、みんなの奉仕を受けてたわけだけど、その村人たちの現世的な部分に接するうちに、去りたくなったわけだね。で、みんながとめるのを聞かずに、まあ、ミラレーパは山に――この時点でまあ、冬だったわけだけど――つまり常識的に考えたら、ね、「いや、みんなが現世的だから自分はまた瞑想に行く」っていうのは、それは分かるんだけど、「こんな真冬に行くことないじゃないですか」と。ね。普通に考えたらね。「こんな真冬に雪山に戻ることは危険です」って言うわけだけども、ミラレーパは――非常にかっこいいよね、ミラレーパってやっぱりね(笑)。ミラレーパが人気あるのは、やっぱりこのかっこよさにもあるのかもしれない(笑)。
「雪山の危難も、荒れ狂う嵐も恐れない。ずっと村にとどまっているよりは、死ぬ方がはるかにましだ。わがグル・マルパも、この世の安楽を避け、隠遁して自己の修行を追求せよ、とおっしゃった。」
ちょっと話がずれるけども、わたしも修行生活の中で、なんていうかな――ちょっとね、これは皆さんがどう考えるかは別にして、わたしの個人的な考えだけども、よくね、お坊さんとかで、畳の上で安らかに死ぬと、それをまあ、なんていうかな、大往生というか。で、それが素晴らしいことだと。で、そのためにはどうのこうの、みたいに言う人々もいますが、それはそれでまあ一つの考えとしてはいいと思うんだけど、なんていうかな、わたしの発想としては、修行者が畳の上で大往生なんてしたら情けないと(笑)。つまり悟りを求めてボロボロになりながら途中で息絶えるぐらいの(笑)、それくらいの心意気の方がいいんだね。で、ここでも師匠のマルパも、「この世の安楽を避け、隠遁して自己の修行を追求せよ、とおっしゃった」と。つまり修行者が安らぎ――つまり完全なね、悟りの安らぎならいいんだけど、そうじゃなくてまあ一般的に言う安らぎとか、安穏とか、安楽を求めたら、それはもう情けないことなんだと。もうその時点で修行者失格であるっていう発想がなきゃいけない。
ただ、だからと言って、なんというかな、無理やり現象的に苦しい状況に自分を追い込む必要はないんだけど。今自分が置かれた状況でね、いろいろ意味のあることもあるだろうから。でも自分の心意気としてね、いろんな現世的な安らぎとかに執着しないぞっていう、まあ、思いは持ってなきゃいけない。
例えばさ、つまり修行ってね、いつも言うように、試練と超越とご褒美の繰り返しなんだね。つまり試練がやってきて、うわーって乗り越えると安らぎがやってくるわけです。ね。で、それは、なんていうかな、最初のうちはいいんだけど、だんだんその安らぎに今度は執着しちゃいそうになる。あのね、ここで最高なのは、一切頓着しないっていうことです。頓着しないっていうのは、どんな安らぎが来ても、どんな苦悩が来ても、全く頓着しないと、これが一番いいね。で、もしそうじゃなくて、ほんとに――これはケースバイケースだけども――いろいろ自分の心がそういうものに執着しちゃいそうだったら、いろいろ工夫して、自分を追い込むようなことをしなきゃいけない。だからといって物理的にすべてを捨てる必要はないけどね。
それはいろんな例があると思うけど、例えばね、これは一つの例ですよ――例えばわたし、このヨーガ教室をつくるときは最初、まあ、その前にインドに行ってて、インドで修行して、日本に帰って来て、ほとんど無一文の状態でヨーガ教室始まったんだけど。でも初期のころはもちろん全くお金もないし、で、生徒も一年ぐらいはね、五、六人しかいなかったね。だからもちろんバイトしながら、いろいろ大変なこともありながら、なんとかやってきたと。でも、例えばですよ、今この教室も結構人が増えてきて、いろいろサポートしてくれる人たちも現われて――例えば食事一つとってもね、最初のころはもちろんお金もないから、ほんとに粗末なものしか食べてなくて、で、ちょっとお金が入るようになってきても、めんどくさいっていうのもあるけども(笑)、時間もないし、そんなにお金もないから、隣にあったセブンイレブンの弁当ばっかり食べてたとか(笑)、ね。でも例えば最近は、まあインストラクターがおいしい料理をつくってくれたりとか、いろんな意味で安定してきた。しかしですよ、だからと言ってわたしが、「やっぱり安定嫌だ」って言って、「カイラスやめます」って言って(笑)、「じゃあ皆さん、勝手にやってください」って言ってどっかに行っちゃったら、やっぱり困るよね、みんなね(笑)。つまり――今の例えばわたしに与えられたね、やるべきことがありますと。つまり縁があって、皆さんにヨーガを教えていくっていうことが、まあ、今自分のやるべきことかなっていうのがあるならば、やっぱりそれは大事にしなきゃいけないわけだね。だからわたしが「安楽に執着しちゃいそうだから、カイラスやめます」って言ったら(笑)、それはちょっと自分勝手だよね。だからそうじゃなくて、例えば今のわたしの例だったら、この状態は保ちながら、自分がいろんな安楽とかに執着しないような気持ちを、常に忘れないようにしなきゃいけない。それは小さなことからね。
まあ、それは皆さんそれぞれがそれぞれ自分の中で考えていったらいいと思うけどね。「最近わたしは心がちょっと怠惰になりすぎてないかな?」とかね。そういうのを常に自己チェックをしながら、まあ、やっていかなきゃいけない。
だからこのミラレーパの話っていうのはね、一つの極端な例なんだね。チベットとかインドにはいろんな修行者がいます。で、いろんな修行者がいて、それぞれがそれぞれの一つのパターンを示しています。例えばいつも言うけども、ミラレーパの師匠のマルパっていうのはこれは逆の極端な例なんです。逆のっていうのは、マルパっていうのはもう完全に在家で、その当時のチベットは一夫多妻でもよかったから、多くの奥さんがいる。で、多くの子供もいる。で、金持ちである。ね(笑)。毎日ご馳走に囲まれてると。で、その中で完全な悟りを得ていた人。ある意味、逆の極端なんだね。で、ミラレーパってもう完全に真逆で、もう一切を放棄して、もう一切現世的なものは――だからちょっとラーマクリシュナに似てるかもしれない。ラーマクリシュナも例えばお金にさえ触れなかったっていうんだけど、ミラレーパも、「わたしは世俗には一切関わりません」という感じで、ほんとにもう布一枚とかだけで雪山とかで放浪をして暮らしてた。だから真逆なんだね。で、もちろん別のタイプの聖者もいる。だからわれわれはそういうのを見て、例えばストレートにね、百パーセントミラレーパの真似をするっていうんじゃなくて、このミラレーパの心意気っていうか、それを自分の中にちゃんとインプットするといいね。それによってバランスをとっていくといいと思います。
特に、いつも言うけど、今日本にわれわれが生まれてね、こういう修行をしてるっていうのは、それはそれで意味があると思う。つまり何かやらなきゃいけないことがある。ね。やらなきゃいけないことっていうのは、つまり自分の中でね、この日本っていう環境の中で自分を成長させていかなきゃいけないっていうこともあるかもしれないし、あるいは他者に対して、日本という世界でみんなに何か影響を与えていかなきゃいけないことがあるのかもしれない。それはそれとしてオッケーなわけだけど、しかしその中であまりにもこの日本の安楽、安楽過ぎる世界にね、ちょっと心奪われないように、こういうミラレーパ的なイメージもね、頭にインプットしといたらいいと思います。
はい。で、弟子たちの、信者たちの懇願も無視して、ミラレーパは山に向かうわけですね。
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