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解説「人々のためのドーハー」第一回(12)

 区別をせず、すべてはひとつであると見て、
 仏陀の五つの家族という区別も設けるな。 
 大いなる愛著によって、三界をひとつにせよ。

 ここには始めもなく、中間もなく、終わりもなく、
 輪廻もニルヴァーナもない。
 最高の至福の状態で、
 自分と他者のどちらもない。

 お前はすべてを、前も後ろも、十方すべてをそのように見よ。
 今日にも、お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!
 他の誰にも尋ねる必要はない。

 はい、まず、

 区別をせず、すべてはひとつであると見て、
 仏陀の五つの家族という区別も設けるな。

 この「仏陀の五つの家族」っていうのは、合宿のときの勉強会でもやりましたが、いわゆる五仏ね。ヴァイローチャナ、アクショーブヤ、ラトナサンバヴァ、アモーガシッディ、アミターバっていう五人の仏陀がいて、で、修行者っていうのはだいたい密教においてはどれかの一族に属しますよと。まあ、例えばね、密教とかでは、伝統的なね、儀式では、よくね、その五仏のマンダラを用意して、で、花とかを投げるんだね。目隠しして。目隠しして花をパーッと投げて、で、それが落ちたところがあなたの一族ですよとかいったりする。で、それにまつわる修行をやったりとかね。あるいはまあ、その人の性格で図る場合もある。こういう性格だからあなたはこの仏陀の一族だから、みたいなね。
 われわれはあんまりそれはなじみないけど、これはだからこういう考えになじみある人に対して言ってるわけですね。そういう観念がある人に対して、そういう区別さえ――つまり神聖な区別と思ってるものさえ駄目だよと。全部区別を設けるなと。すべては一つであると見なさいと。

 大いなる愛著によって、三界をひとつにせよ。

 これは、ちょっといろいろ取れる言葉ですけども、もともと密教っていうのは、愛著であるとか煩悩を逆に利用する修行なわけですね。でも利用するっていっても別にそれは、いつも言うように、それらを肯定するわけではなくて。
 そうだな、これはいろんな意味があるわけだけど、一つは、いつも言うように、あらゆる煩悩や感情の正体は、究極的には悟りの歓喜となんら変わらないっていう考え方がある。それは一つだね。
 でもそれはちょっと高度っていうか難しい話なので、もうちょっと皆さんに分かりやすい話で言うと、これもまたバクティヨーガの考え方が一番いいんじゃないかと思う。どういうことかっていうと、バクティヨーガはまさに、大いなる愛著によってすべてを一つにする道だよね。つまり、神への強烈な愛著。つまりここにおいて、愛著は捨てろとは言われない。愛著しなさいと。神――まあ、ラーマクリシュナが言ってるように、おまえの奥さんや子供や仕事に対する執着を全部一緒くたにして神に向けろと。ね。愛著を捨てろとは言われない。徹底的に愛著しろと。しかし対象は神だと。で、それが究極化すると、神はすべてであると。ね。あれもこれもあれもすべて神である、というかたちで、神への強烈な集中によって二元性が壊れていくっていう。入口は二元性なんだけどね。入口は二元性なんだけど、その強烈な集中、執着によって壊れていくと。
 だからここは何を言いたいのかっていうと、基本的なことしか言っていません、ここは。つまり具体的な方法論は提示していない。今言ったのは一つのバクティの道なんだけど、別の道もいろいろある。いろいろあるんだけども、密教の道っていうのは、今言った愛著、言い方を換えると精神集中、これを利用して、二元から究極の一元に突っ込んでいくっていうかな、道なんだっていうことですね。ちょっと難しくなってきますね。

 ここには始めもなく、中間もなく、終わりもなく、
 輪廻もニルヴァーナもない。
 最高の至福の状態で、
 自分と他者のどちらもない。

 はい、これも究極の境地のことをいってるだけだね。これもだから、そういうものなんだな、ぐらいに思っておいたらいい。

 お前はすべてを、前も後ろも、十方すべてをそのように見よ。
 今日にも、お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!
 他の誰にも尋ねる必要はない。

 はい、まずこの「すべてを、前も後ろも、十方をそのように見よ」っていうのは、これはもちろん悟って、その悟った状態で世界を見るっていうのをここでは言ってるわけだけど、でもまだ悟ってない段階においては、応用としてね、まだ悟ってはいないんだが、一つの観念的な見方として、これは応用することができます。つまり、一切は一つであって、そして輪廻もニルヴァーナもないんだと。あるいは、始めも中間も終わりもないんだと。
 これは、そうですね、ちょっとコツを言うと、あまりガチガチに観念的な感じではなくて、なんとなくでいいです。なんとなく、輪廻もニルヴァーナもないんだなと、始めも終わりも、中間も終わりもないんだなっていうような感覚で、一切の日々の現象を見ると。ね。これは一つの、応用できる修行だね。そうするとあんまり目の前の、「こうなってほしい」とか「こうだからこうなんだ」とかいうのにはあんまり引っかからなくなるっていうか。
 はい、そして、

 今日にも、お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!
 他の誰にも尋ねる必要はない。

 これが、だからさっきから言ってる、密教――特にマハームドラーってそういう感じなんだけど、師と弟子の一対一の世界ですよと。
 「他の誰にも尋ねる必要はない」っていうのはつまり、経典も読む必要もないし――経典を学習する必要はあるんだけど、その経典に答えを求める必要はないと。あるいは、ほかの権威あるどっかの聖者に求める必要もないと。つまり答えっていうか、ヒントっていうか、その抜け道はおまえの師の中にだけあるんだよと。
 これはね、わたしの好きな言葉で、ナーローパがね、マルパに言った言葉――これはちょっと、前にも何回か言ったけど、もう一回言うとね――マルパっていうのは、師匠のナーローパのもとに、まあ、十数年間いたんだね。十数年間いて、一生のうち――マルパってチベット人なんだけど、三回インドに渡って、まあ一回目が九年くらい、二回目が六年くらいいたのかな。で、三回目は短かったんだけど、ちょっとある重要な用事があって、まあ、だいぶマルパは高齢になってたんだけど、でも危険を押してまた三度目のインドに行ったんだね。で、その三度目にナーローのもとに行って一緒に寝泊まりして修行してるときに、朝、ナーローパがマルパを起こすわけだね。「起きろ、大変だ!」と。「マルパ!」と。で、マルパが、「え、どうしたんだろう?」っていう感じで目覚めると、マルパのイダムね――イダムっていうのは、密教の行者っていうのは誰でも自分の、一番いつも集中する神みたいなものを持つわけだけど、マルパのイダムっていうのはへーヴァジュラっていう神だったんだけど、まあ、だからいつもマルパは瞑想してへーヴァジュラをイメージしたり、自分がへーヴァジュラになった瞑想をしたりとかを年中やってたわけですね。そしてナーローパは「おまえのイダムのへーヴァジュラが現実に現われてるぞ!」って言うんだね。
 で、パッと見たらほんとにへーヴァジュラがいたんだね(笑)。で、そこでナーローパが「さあ、どうする?」って言ったんだね。どうするっていうのは、「おまえのグルであるわたしに礼拝するか? それともこのへーヴァジュラに礼拝するか?」と。「どうする?」って言ったんだね。で、とっさのことだったので、マルパはふと考えて、わたしはいつもグルと一緒にいると。だからグルにはいつでも礼拝できると。でもへーヴァジュラが現われるのはほんとに稀なことだって思って、へーヴァジュラに礼拝したんです。そしたらナーローが、「失敗したな」と。「おまえは間違いを起こしたな」って言って、で、ある詞章を唱えるんだね。その詞章っていうのが、「グルが現われる以前には、仏陀釈迦牟尼さえ存在しなかった」と。「千カルパの、つまり過去・現在・未来の偉大な仏陀方も、ただグルゆえにやって来る」と詞章を唱えて、指をパチッて鳴らしたら、へーヴァジュラがシューッてナーローパの心臓に消えたんだね(笑)――という話があって。
 で、これはね、実は非常に深い、意味のある言葉なんです。これはね、ちょっと皆さん理解できるか分かりませんが、ストレートに言いますよ。――もう一回、今の言葉をちょっと思い返してみましょう。

「グルが現われる以前には、仏陀釈迦牟尼さえ現われなかった。
 千カルパの過去・現在・未来のすべての仏陀方は、ただグルゆえにやって来る。」

 これは、この言葉をね、表面的なとらえ方をすると、いや、やっぱりグルがいないと、師匠がいないと修行はなかなか進まない、というふうにとらえるかもしれない。でも実は、もうちょっと深い意味があるんですね。そのもうちょっと深い意味っていうのは、なんて言ったらいいかな、つまり、われわれはさ、例えば皆さんそれぞれ、すごく、時間的な考えをすると思うんだね。時間的な考え、あるいは時系列的な考え。どういうことかっていうと、はい、わたしは今までこういう生き方をしてきて、で、あるときあるきっかけがあって仏教の教えに巡り合いました、あるいはヨーガの教えに巡り合いました。で、こことこことここを訪ねて、こういう経験をしました。で、これとこれをやっていろんな段階に進んで、で、師匠に巡り会いました。で、今、師匠のもとで頑張ってますが、でも前に学んだこれもまあいいかなと思ってますとか。これは普通だよね。じゃなくて、実は違うんだと。つまり、もともとグルしかいなかったんだっていう話なんだね(笑)。ちょっと理解できるか分かんないけど。実は君が出会ったのは師だけなんです。ただグルにしか出会ってないんです。実はもっと前に仏教知ってましたとか、いや、二千五百年前にお釈迦様がいて、で、そのことを学んでましたとか、全部、つまり時系列的な話ではないんだね。
 ほんとは――だからもうちょっとこれを時系列的に言い直すと、そもそも最初に皆さんはグルに出会ってるんです。師に出会ってるんです。で、そこから派生する妄想のようなかたちで、幻影のような形で、さまざまな教えや仏陀や神みたいなものが現われてるにすぎないんだと。だから皆さんが――これはね、ラーマクリシュナの弟子のマヘーンドラナートね、Mも言ってますが、グルというのはこのマーヤーの、つまり幻影の世界にヴェールに開いた一つの穴だっていう言い方をするんだね。まさにそうなんです。それが皆さんにとっての師なんです。師っていう存在っていうのはそういう存在なんだね。われわれはもうほんとにわけわかんないマーヤーに包まれてる。そこにバッて穴が開いて光が差し込む。で、そこからいろんな、われわれと真理との展開があるんだね。だからわれわれが真理と縁ができて、その果てに師と巡り会ったんじゃないんです。われわれの前に現われたのは師だけなんです。これがすごく、なんていうかな、超越的なっていうか密教的な見解なんだね。
 でも、これはだからほんとに――この中で今、理解できた人もいるだろうし、「ん? なんとなくこうなのかな?」って思った人もいるかもしれないけど、こういう話っていうのはほんとに、だから、現実を突き崩す、ヒントの教えなんだね。これでほんとに悟ったりはしないかもしれないけど、ちょっとこう、われわれのそのガチガチの現実にちょっとヒビを入れるような教えなんだね。
 はい。で、ちょっともう一回戻すけども、だから、「お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!」と。「他の誰にも尋ねる必要はない」と。つまりおまえが誰かとか、あるいは何かとか思ってるのは全部その妄想の中の、なんていうかな、逃げみたいなものであって、密教においては特にね、師と弟子の関係しかないんですよと。
 で、いつも言うようにさ――今言ったのはちょっと高度な話をしたけど、もうちょっと現実的な話を言うよ。現実的な一般的な話としては、当然、師と弟子の関係が強ければ強いほど――強ければ強いほどっていうのは、別の言い方をすると、真剣に、ほんとの意味で、悟りに向かう関係であればあるほど、当然、他の介入はない方がいいんだね、この道っていうのは。つまり、いつも言うように、逃げ道になってしまっちゃしょうがないから。例えば師がある道を提示して、でも例えば弟子がほかの本を読んだり、あるいはほかの聖者に意見を聞いたら、違うことを言ってくるかもしれない。
 『あるヨギの自叙伝』の中でもあるよね。ヨーガーナンダがすごくヒマーラヤに憧れていて――だからここでもヨーガーナンダは、このサラハが否定してるような、ちょっと権威主義になってたわけだね。なんかヒマーラヤに行けば悟れるような感じがしてた。ね(笑)。ヒマーラヤに行けば何かが起きるような感じがすると(笑)。で、憧れるんだけど、彼の師のユクテーシュワルはそれを、反対っていうかな、まあ、認めないわけですね。でもヨーガーナンダはヒマーラヤに行きたくてしょうがないと。で、証人を得たいと思って、ユクテーシュワルの兄弟弟子である別の聖者のところを訪ねて行ったわけですね。で、自分のヒマーラヤ行きがいかに正しいかをその人に認めてもらおうと思ったわけだね。でもその人も、すべてを分かっていてね、「おまえは師のもとに帰れ」と。まあ、その人の言葉も感動的なんだね。「おまえの部屋に一人になれる部屋はあるか?」と。「あります」と。「そこがおまえのヒマーラヤの洞窟だ」と。ね。別にヒマーラヤで修行することだけが聖者の専売特許じゃないと。ね。特にヨーガーナンダっていうのは、西洋に教えを広めなければいけない使命があったから、単純にヒマーラヤにこもって静かにニルヴァーナに入るようなタイプの修行者じゃなかったわけですね。だからユクテーシュワルはヨーガーナンダの使命どおりのね、引っ張り方をしようとするわけだけど。
 ヨーガーナンダっていうのはね、面白おかしく書いてるのかもしれないけど、『あるヨギの自叙伝』とかを見ると、素晴らしい聖者なんだけど、若いころは結構わがままなんだよね(笑)。結構なんか、いろんなところで師に逆らったりするわけだけど、でも最後はまあ、師への帰依に落ち着くわけだけど。
 だからそういう、例えばほかの聖者の言葉とか、あるいは経典のセオリーとか、そういうのに逃げてしまいそうになるわけですね。特にこれは、何度も言うけど、道が、つまり悟りへの道が真髄に近づけば近づくほどそうです。逆に言うと、近づいてないんだったらまあ、あんまり大した話ではない。つまり、例えばね、そんな悟りの真髄の話ではなくて――例えばですよ、師匠が「ちょっとこうしたらいいんじゃない?」とか言って、それが軽い話だった場合ね、でも経典を見たら、でもこうなってたから、でもこっちやろうかなと。それはまあ、そんなに大した話じゃない。でもほんとに究極に近づいた、本当の意味で師が弟子を悟りに導こうとしていて、で、それがかなり達成間近ぐらいになってくると、非常に問題が大きくなるわけだね。で、達成間近になるっていうことは、逆の言い方すると、エゴがものすごく圧迫されてるときだから、エゴが圧迫されてもうすぐエゴが壊れる!っていうときだから、弟子は当然苦しいわけです。苦しくて、逃げ道を探しだしたくなる。だからそうじゃなくて、「お前のグルに、妄想を終滅させて頂け!」と。「他の誰にも尋ねる必要はない」ということだね。

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