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解説「人々のためのドーハー」第一回(1)

2009年12月26日

解説「人々のためのドーハー」第一回

 はい、今日はサラハの『人々のためのドーハー』ね。これは、『王のためのドーハー』っていうのをしばらくやっていて、それはまだ途中だったんですが、ちょっと中断して、この『人々のためのドーハー』をね、今日から始めたいと思います。
 いつも言ってるけども、サラハのドーハーっていうのは三つあるわけですね。で、一番量が多く、そして、まあ内容的に初心者向けなのがこの『人々のためのドーハー』ですね。で、この前までやってた『王のためのドーハー』っていうのは、一番高度なものだったので、ちょっとね、それはあとでやることにして、まずはこの一番初歩的なね――初歩的といっても難しいです。相対的に初歩的っていう意味で、初歩的とはいえ難しい内容だけども、ここからね、入っていこうと思います。
 サラハの話はもう毎回何度もしてるので端折るけども、一応ね、重要な、大事な部分だけ言うと、まあ復習になるけどね、ドーハーっていうのは、修行して悟りを得た人の、心から出る歌なんですね。これはミラレーパの歌とかも有名ですが、特に密教行者とかは、自由に自分の悟りを歌で表現するんだね。それをドーハーといいます。で、このサラハっていう人は、偉大な密教の大聖者の一人なわけですが、特にマハームドラーといわれる系統の流れの大もとの一人ともいわれてる人です。
 で、このサラハが人々に与えたドーハーが三種類あるわけですね、今言ったように。で、その一つ目がこの『人々のためのドーハー』。これはまあ、サラハのもとに多くの人がやって来たときに、そのみんなに対して説いた歌といわれています。で、二番目が『王女のドーハー』。これは、サラハの元婚約者だった王女様に対して説いた歌なんだね。で、この王女様っていうのはとても智慧が優れた人だったので、この『人々のためのドーハー』よりも短い言葉で真理を理解できた。『人々のためのドーハー』は百六十の歌っていわれてるんですが、王女の歌は半分の八十の歌で真理を表現をした歌ですね。で、『王のドーハー』。この王様は最も智慧が優れてたので、さらに少ない四十のね、詩で、真理を表現したといわれています。
 はい。で、その一番最初のね、『人々のためのドーハー』。これは百六十といわれてますが、実際百六十ないです。その理由は、失われてしまったのか、もしくはもともと正確に百六十はなくて、八十の倍で百六十って言ってただけなのか、もしくはその詩のね、切り方がちょっと違うのか、その辺は分かりません。分かりませんが、現存してるのは百六十はない。百数十個だけなんだね。はい、これが『人々のためのドーハー』ね。
 はい。で、ちょっと最初にね、内容の、特にその最初の部分を言うと、まずいきなり批判から始まってます。批判ね。批判の矛先になってるのは、ヒンドゥー教とジャイナ教と仏教です。サラハはもちろん仏教徒なんだけど、その三つを徹底的にまず批判してる。で、これはね、前の何かの勉強会のときにも言ったけども、このサラハがやってることってまさに、時代の変わり目における、カウンターパンチなんだね、カウンターパンチ。
 カウンターパンチってどういうことかっていうと、つまりね、これもいつも言ってるように、真理というものは、つまり究極の真理というものは、当然、言葉や概念は超えてるんだね。究極の真理を本来言葉で表わすことはできない。あるいは何かの教えの枠に当てはめることはできないんです。しかし、もちろん何かで表わさなきゃいけないから、過去のいろんな聖者方は、いろんな教えを作り、あるいは体系をつくったわけですね。それは、例えばお釈迦様だったらお釈迦様がバーンって現われて、さあ、今迷ってる人々にはどういうやり方がいいか、っていうんでバーッて与えたのが教えなわけですね。しかしこの教えっていうのは、例えばお釈迦様だったらお釈迦様が死んだあと、当然形骸化していくわけです。つまり、かたちだけはあるが、その中身が伴わないようなものになっていくんだね。でも多くの人はそのかたちに何か意味があるような錯覚をするから、そのかたちにとらわれてどんどんおかしな方向に行ってしまう。
 例えばさ、すごく単純な例えで言うとね、「はい、真ん中を行きなさい」と。これが正解だとするよ。でも無智な人は、真ん中ってなんなのかよく分かってない。そうすると、右に偏りだす。そうすると聖者は何を言うかっていうと、「左に行け」って言うわけです。ね。だって右に偏ってるから。「左に行け」と。「あ、左ですか」。でもこの人はばかだから、どんどん左に行ってしまうわけだね(笑)。そうするとまた新たな聖者が現われて、「右だ」って言うわけです。「左に行ってもなんの価値もない、右だ!」「あ、右なんですか」と。そうすると、ばかな人はこれを見てね、「あの聖者は右と言って、この聖者は左と言っている」と。「いったいどっちが正しいんだ」と。どっちが正しいじゃないんだね。それはその時代その時代におけるカウンターパンチなんです。つまり左にガーッて来ちゃって間違ってるからバーンって右に押し返してるんだね。あるいは間違って上に行く人もいる。それは「下」っていう教えを説くわけだね。
 で、これはインドとかチベットにおいて、多く、そういうのが行なわれてる。まさにお釈迦様の登場なんかもそうだね。お釈迦様がバーンと現われて、その当時のバラモン教といわれる人たちを徹底的に打ち壊して、新たな仏教っていうのをつくった。あるいは大乗仏教の登場もそうだね。僧院にこもって、ちょっとマニアックな集団になってた仏教を内部批判して、「菩薩の道だ!」ってバーッて大乗仏教が現われたと。あるいはヒンドゥー教の中でも――まあ例えば有名なのはシャンカラとかね。シャンカラっていう聖者は、その当時のヒンドゥー教をね、もう徹底的に批判して。まあ、すごい闘争的な人だったらしいんだけど。シャンカラっていうのはインド三大聖者の一人といわれてる。三大聖者っていうのは、お釈迦様、それからラーマクリシュナ、そしてシャンカラといわれてるんだね。まあ、これはもちろんいろんな考え方があるだろうけど。シャンカラっていう人はすごい議論の達人で、インド中を旅して、そこら中のヒンドゥー教の先生方を論破していったんだね。で、不二一元論っていう、ヒンドゥーの最高哲学を打ち立てた人だね。つまりその当時の非常に形骸化していたヒンドゥー教を全部ぶっ壊して、で、新たな教えをバーンって打ち立てたと。
 もちろんラーマクリシュナとかもそうだね。ラーマクリシュナも、その当時の、非常に観念的なヒンドゥー教の枠組みを壊して、「すべては一つなんだよ」と。つまりもう、その当時の人にとっては非常にショッキングな、「イスラム教もキリスト教もヒンドゥー教も全部同じだ」と。ね。「神への道は一つだ」っていうショッキングな教えを説いた。
 こういう感じで、時代時代においていろんな聖者が現われて、修正をしていくわけですね。だからこのサラハもそういう感じがある人だね。
 サラハっていうのは、もう一回言うと、密教の大御所っていうか、密教の初期の大聖者の一人なので、その当時のちょっと形骸化しかかっていたインド宗教を、こういうかたちで批判してね、元に戻そうとしてる。
 だから、こういうのを読むときっていうのは、これから今読んでいきますけども、あまりね、勘違いしないようにしたらいい。つまり、いろんなことを批判してるんだけど、例えば「瞑想するな」とか批判してるんだけど、実際にはわれわれは瞑想しなきゃいけない、やっぱりね(笑)。その言わんとしてる本来の意味を読み取らなきゃいけないね。それは気を付けて読んでください。

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