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解説「菩薩の生き方」第十回(8)

 はい、それから解説の最後に書いてあるのは、つまり、これも何度も言ってることですけどね、まず信仰の第一段階としては、非常に狭い信仰として「わたしの神よ」っていう信仰がある。これはこれで素晴らしい。しかしこれがより純粋化されてくると、「あれ? 結局この世界には神しかいなかった」っていう発想になる。これはまあ、二つあります。一つは今言った、この世界には神しかいないっていう発想。あるいはもう一つは、これはこういった大乗仏典によく書かれてるわけだけど、世界の衆生はすべて仏陀の愛する子たちであると。よって、わたしが仏陀を愛するんだったら、仏陀の最愛の衆生のために働くんだっていう、そういう発想ね。これはどっちでもかまわない。こういった発想になっていくんだね。
 グーッと神や仏陀への信仰が強まっていって、バーッてスパークしたときに、ああ、みんな仏陀であった――しかしリーラーによって、彼も彼も彼もみんな至高者なんだけども――例えば、自分が好きな神でいいよ。例えばシヴァ神が好きだったら、あれ、みんなシヴァだったと。あるいはみんなクリシュナじゃん、みんなラーマじゃんと。しかし、わたしの最愛のクリシュナが、苦しんでるフォームをとっている。それはリーラーとはいえ、見ておけないと。リーラーとはいえ、クリシュナが苦しんでるなんて耐えられないと。よって、それぞれのクリシュナの変化である一切の衆生を救うために、自分を犠牲にして、何度も生まれ変わってみんなを救済する役割を負おうと考えるんだね。これが一つ。
 もう一つは、自分の最愛の至高者、あるいは仏陀の慈愛というものは、あるいは哀れみっていうものは、最高であると。で、この世の衆生っていうのは一人残らず、自分が愛する仏陀、あるいはシヴァやクリシュナやラーマたちの最愛の子であると。つまりわたしが至高者を大好きで愛していてすべて捧げてるんだったら、彼が最も愛してる衆生たちも、わたしにとっては崇拝、供養、あるいは奉仕の対象であると。で、その彼らがこんな状態になってる――つまり、これはリアルに考えても分かるよね。つまり自分の最愛の存在がいて、その最愛の存在の子供とかが苦しんでたら、やっぱり全力で命をかけても救いたいって思うよね。そういう感覚でみんなを見れるようになってくる。
 これが、ガウニからパラーに広がったバクティですね。だから単純に、「みんながかわいそうだから救うんだ」っていう発想だけではなくて、バクティの、つまり信仰の深まりにおける当然の帰結として、そのような自然な衆生への愛っていうかな、それが出てくるんだね。これがここに書かれてることですね。
 

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