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M――使途にしてエヴァンジェリスト(2)

 今日はベンガル歴1329年のファルグン月29日目、西暦1923年3月13日火曜日、黒分11日目である。明日はガンガーでの神聖な沐浴の日、ヴァルニである。
 午後10時、信者たちがコルカタから到着した。ミヒジャは、東インド鉄道でコルカタから144マイル離れている小さな村である。それはサンタル・パルガナの中の保養地であった。夜10時には、この場所のあたりすべてがひっそりと静かになる。バクタが戸口をたたいて「ビノイ、ビノイ」と大声で呼ぶとすぐに、Mが別の部屋から出てくる。夜は冬の終わりで少し寒いので、Mはウールの首巻で頭を覆っていた。
 Mは高く威厳のある背丈、頑丈にできた体、また色白で、広い額と胸、膝まで届いているとても幅の広い腕、そして神の愛を帯びた大きな目を持っている。胸まで流れ下る長い銀色のあごひげで飾られた彼の光り輝く顔は、深く安らかで、威厳を漂わせるバーヴァ(神聖な性質)で満ちている。ハンサムな外見で、深くユーモアがあり、甘美な言葉づかいで、シュリー・ラーマクリシュナの考えの中に没頭した。
 この偉大なヨーギーは、まるで絶えずシュリー・ラーマクリシュナの栄光を歌うためにその存在を保持しているようだった。偉大な聖者、そして学者である彼は、完全なる謙虚さの化身であった。この神人を見て、信者の心あるいは魂は神聖な喜びに満たされた。
 信者は心中に思った。なぜ神の愛に狂ったこの老いたマハーリシ、また疑いがすべてバラバラに切られ、望みが満たされたナーラダやヴィヤーサのような完全なる魂が、このシダでできた人里離れた小屋に住んでいるのだろうか、と。この厳しい禁欲的な生活、神のための苦行に深く没頭するのはどうしてなのだろうか? これは神の至福のワインを飲んだがゆえの酩酊状態なのだろうか? これが理由のない自然な愛なのだろうか? バガヴァーン・ヴィヤーサデーヴァが以下のように言ったのは、おそらくこの理由のためなのである。

「真我の中にある唯一なる喜びを知り、また疑いがすべてバラバラに切られたことを知る賢者でさえ、要求のない、あるいは理由のないバクティを実践する。神はそのような魅力的な栄光なのである。」

 現在アシュラムの中には、4人のバクタのうちの3人が住んでいる。
 挨拶を交わし、軽い会話をし終わると、Mは信者のための食事の準備に忙しくしている。
 バクタは繰り返し言っている。

「先生、今日はエーカダシーです。わたしは断食を守っています。食べるべきものはもう食べてきてました。」

 しかしMは、信者が持ってきた贈り物から、2個のオレンジ、2つのシーターボグ(甘くスパイシーなご飯)と3つのミヒダナ(西ベンガルの人気のデザート)を手に取ってサラノキの葉に置き、タクルにそれらを捧げた。Mは、自分がそれを分けなかったら来客は何も食べないであろうことを見てとって、夜11時という遅い時間にオレンジの2、3房を食べた。シュリー・ラーマクリシュナのお姿の前に座る信者は、神聖な供物を食べている。Mはコルカタのバクタたちの幸福について尋ねている。
 食べ終わって、信者はサラノキの葉を捨てるために外へ出た。部屋に再び戻ると、Mが自ら、信者が食べた場所を水で掃除しているではないか。驚きながら、信者は考えている。

「偉大な悟りを得た魂の行為は、実に驚くべきものである!」

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