2007.12.26 ヨーガスートラ第一章
◎原始ヨーガ経典
ヨーガ・スートラについてまずいうと、今のフィットネス的なヨーガじゃなくて、本格的な伝統的なヨーガを重んじる場合、一番古い由緒正しい経典――これがヨーガ・スートラです。これは原始ヨーガともいわれますが、一応ヨーガと名のつくもので、まとまった経典としてしっかり残っているものの一番古いやつだね。まあ古いといっても、五世紀ごろの作品といわれています。
実際はもちろんこういったヨーガの世界というのは、もっと前からあったわけだけど、それがこういう形でしっかりまとめられたのが五世紀ごろ。これを書いたのはパタンジャリと普通はいわれていますが、ただパタンジャリという人は実は紀元前二世紀ごろの人なんだね。だからパタンジャリが書いたということはあり得なくて、おそらくパタンジャリを含めてその時代のヨーガの聖者というか、聖者でありこういう文章的能力のあった人たちの作品とか言葉を集めて編集したのが、このヨーガ・スートラじゃないかといわれています。
とにかくその後のさまざまなヨーガに広がっていく、一番の原初的な経典ですね。
ここにはいろんな哲学が登場してきますが、これはもうすでに学んだものあるけども、あまり学者的に一つ一つを掘り下げる必要はないです。
カイラスでは、仏教のいろんな経典とかヨーガのいろんな経典とか学んでいるから分かると思うけど、結局同じことを言おうとしているんです。ただ宗派とかいろんな流派によって、結構若干定義が違ったり名前が違ったりするんだね。だから一つの同じものを別の角度から説明しようとしているから、AとBが違うように見えちゃうんだけど、実際は全く同じなんです。
同じものを――例えばよく言われるように、仏教では「盲人が象を見たたとえ」というふうに言ってるけどね。仏教が言っている「盲人が象を見たたとえ」っていうのは、盲人――目の見えない人に、象を触らせた。それに対してある王様がね、聞いたわけですね。「お前たち、象とはどういうものだったか」と。で、鼻を触った人は、「象とはぶにょぶにょして長かったです」と(笑)。おなかを触った人は、「象とは太鼓みたいに大きかったです」とか。尻尾を触った人は「象とはほうきみたいでした」とか、いろいろそれぞれ言って喧嘩し出した。「いや、おれこそが象を知っている」――これが中途半端なというか、まだ完全な悟りを得てない者たちの喧嘩なんだね。つまり、それぞれが絶対的な真理の一部だけを見ていて、それぞれがああだこうだああだこうだ、あれが正しいこれが正しいと言っている。これはまだ中途半端な者たちの喧嘩です。
じゃなくて、じゃあ完全にすべてを見たものは喧嘩しないのかっていうと、本当に見たものは喧嘩しない。なぜかっていうと、お互いに象を見たって分かっているから。例えばこれはどういうたとえかっていうと、象というものがわれわれの全く見たことがない理解の範疇外にある動物だとするよ。昔の日本人はもちろん、象とか見たことがなかっただろうけど。それを、私が象を見たとするよ。ここにいる、例えばK君とかTさんとかも象を見たとするよ。この三人が例えば象を見て、で、ばらばらに見たとするよ。ばらばらの場所で三人が象を見ました。この三人が会って、「え? 君も象見たの?」と――二、三回会話を交わせば、「あ、そうだよね」と(笑)。「分かる、分かる」と、分かるじゃないですか。だから本当に見た者同士は分かり合えるんです。問題はこの弟子です(笑)。私が私の弟子に「象とはこうだよ」と伝えるんです。さらにその弟子からその下に、「象とはこうだそうだ」って伝わる(笑)。K君もそういうふうに伝えていって、Tさんからも伝わっていく。この二代三代目の弟子たちが話し合う――ここで喧嘩が起きるわけです。だって、私の伝え方とTさんの伝え方とK君の伝え方は違うわけだね。どこを強調するかとか。だから見たもの同士は分かり合える。でも伝え聞いたもの同士は、師匠が言っている強調部分が違うから――例えば私はね、鼻の長さにすごく感動して、「象の鼻はすごかった!」とか言うかもしれない。でもK君は全くそれには着目してなくて(笑)、実質的な部分というか、「あの体重」とか。つまり私は見た目にとらわれて、K君はもうちょっと実質的なパワーとかそういう部分にとらわれたかもしれない。で、Tさんはまた全く別の観点で――例えば私が「美しい。象とはなんて美しいんだ」と言ったのを、Tさんは「いや、あんな醜いものは見たことない」って伝えたかもしれない。これが、何度も言うけども、見た本人同士は分かり合えるんだけど、言葉にした段階で弟子たちの間に意見の相違が起こる。これがさまざまな仏教・ヨーガの宗派・流派の意見の相違なんだね。
全く同じものを昔の聖者方は見ていたんだけど、本当は見てないただ学問だけ学んだ者たちが、お互いにああだこうだ言い合っているだけなんだね。だからそういう過ちには陥らないようにした方がいい。
ヨーガ・スートラでこれから学ぶいろいろな定義というのは、ちょっと独特な定義もある。だからここはあまり掘り下げなくてもいいかなっていう感じがするね。ある程度大まかな理論体系をおさえておけば、後は柔軟な目で他のいろんな体系を見ればいいね。「あ、これはこれに当たるな」っていうのがよく分かる。そういう見方をしていった方がいいね。一個一個、「これどうなんだろう?」ってそこにのめり込むよりは。
後はもう自分で経験するしかない。自分で経験して、「あ、なるほど」と。つまりさっきのたとえで言えば、自分でいかに象を見るかっていう努力だね。象を見てしまえば、やっと分かるわけです。「あ、なんだ」と。「うちの師匠が言ってたのは」――全然違うことを想像しているかもしれないじゃないですか(笑)。象は耳がでかいって言ったときに、人間みたいな耳を想像するかもしれない。象ってこんなやつなの(笑)?――でも行って見たら、「あ、こういうことかと」。そういう体験による教義との一致を計るまでは、ある程度言葉によるものっていうのは、「まあ、そういうもんなんだ」ぐらいにおさえておいたほうがおいた方がいいね。その最終結論というのは自分で経験してみなきゃいけない。
はい、一応ね、一番ヨーガの世界では権威を持つヨーガ・スートラの勉強会を今日はしたいと思いますが、今日はサンスクリットとそれから日本語を併記しているので。ヨーガ・スートラっていうのは本当に、その道の人っていうか、本格的なヨーガをやる人からはすごく崇拝されています。本当に崇められている。もうそれそのものがものすごい帰依の対象というか、崇拝の対象になってる。ただ私自身は、そこまでそれを神格化する必要はないと思う。つまりこのヨーガ・スートラですら、さっきも言ったように、言葉では表わせない真理をあらわしたものの一つであって、そういう感じで相対化して見ていいと思います。ヨーガをやっているからヨーガ・スートラが絶対的な経典というわけではない。
実際にヨーガ・スートラの経典の勉強会を前もちょっとやって分かったと思うけど、結構分かりにくかったりとか、ちょっと現代的には表現が合わなかったりとか。あるいは他のいろんな経典と比べて、いろんな長所短所それぞれある。だからこればっかりをすごく神格化する必要はないんだけど、ただヨーガをしっかりとみなさんがこれから修めていく上において、避けては通れないのがこのヨーガ・スートラだね。
でもだからといって、何度も言うけど、別にヨーガ・スートラを学ばないと悟れないとか、ヨーガが進まないということはないね。ただ一応学んでおくと、ヨーガというものの原始的な流れっていうかその全体像が見えて来やすいかも知れないね。
はい、じゃあ今日はそのサンスクリット併記しているので、このサンスクリットを読むこともとてもいいといわれているので――ヨーガ・スートラに関してはね――サンスクリットと日本語という感じで読んでいきましょう。