yoga school kailas

◎論理的な書物

【本文】
アタ ヨーガーヌシャーサナム

これよりヨーガを解説しよう。

ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ

ヨーガとは、心の作用を滅尽することである。

タダー ドラストゥフ スワルーペー アヴァスターナム

そのとき、見る者は、自己本来の状態にとどまることになる。

ヴリッティサールーピャミタラトラ

それ以外のときには、見る者は、変化したものを自分だと思う。

 昔あるヨーガが大好きですごくやっている人と話した時に、その彼の一番好きな言葉というか、一番これが真理だと思う言葉として挙げいたのが、この二番目の言葉――「ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ。ヨーガとは、心の作用を滅尽することである」――これはすごく有名な言葉で、よくいろんなネットとか本とかいろいろ引用されるんだね。「ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ」。
 ここでは「心の作用を滅尽」って訳したけど、いろんな他の訳もあります。制御するとかね、あるいは「心の作用」をまた別の方にとっている訳もあるけど、この一行をすごく重要視する。
 ただそこまで神格化する言葉でもないように思いますね。私は今勉強会で、何をさっきから言っているのかっていうと、あまりそういうふうには走って欲しくないんだね。つまり、本格的なヨーガをやっている人っていうのはヨーガ・スートラをとても重要視する。それはもちろんいいんです。それはOKなんだけど、まるでそれがたとえば日蓮宗の法華経みたいに、なんか触るだけで浄化されるぐらいの、すごい権威的なものを持っちゃっているんだね。内容ももちろんすばらしいんだけど、別にそこまでこの言葉が全てだというような、そんな世界じゃない。どっちかっていうとヨーガ・スートラって読んでいけばわかるけど、かなり哲学的な話なんです。この言葉が全てを含んでるとかなんか曖昧な感じではなくて、すごく哲学的に説かれているんで、そういう目で見たらこの一行っていうのは全体の中の一行に過ぎなくて、別にそこまでこの一行を神格化する必要はないっていうか。そういう理性的な目でこのヨーガ・スートラを読んだ方がいいね。
 バクティ系の読み物は違いますよ。例えばバガヴァッド・ギーターとかは、もうちょっとバクティ的な目で読まなきゃいけない。例えばクリシュナが、「私に帰依さえすれば、全ては得られる」――そこを、「え? それは一体どういうことだろうか?」とか考える必要はない(笑)。それはただ心でそこに感応して、「そうだ」と。「私は至高者にただこの身を預けるだけでいいんだ!」――これでいいんです。でもこのヨーガ・スートラは違うんです。もう徹底的な論理的な書物なんです。だからそれはそういう曖昧な崇拝の観念じゃなくて、論理的に読まなきゃいけない。

◎ヨーガの定義

 はい、ここのところをまとめると、まずヨーガの定義がばーんと最初に来ているわけだね。
「ヨーガとは、心の作用を滅尽することである」。
 いきなりばーんときてますね。
「そのとき、見る者は、自己本来の状態にとどまることになる。それ以外のときには、見る者は、変化したものを自分だと思う」。
 はい、これはここで何度も言っている話です、この話は。じゃあ、Cちゃん、見る者って何だと思います?

(C)ヨーガを行じている人?

(D)……心?

(K)純粋観照者。

 そうだね。純粋観照者。純粋観照者というのも「見る者」という意味だけど――つまり真我だね。真我つまり純粋観照者。ただ見ているだけのわれわれの本質――真我といいます。
 ヨーガとは、心の作用を滅尽することである。そのとき、見る者――つまり真我は、自己本来の状態にとどまることになる。それ以外のときには――それ以外のときというのはつまり、心の作用が滅尽されてないときね。――そのとき、見る者は、変化したものを自分だと思う。これは分かるね。いつもここで言っていることです。
 まず真我というものは、ただ見ているだけの人。心というのは、プラクリティとか――つまり真我とは全く関係のない――本当は関係あるんだけど、一応関係のないと言っておきます――関係のないエネルギーが展開して、映画を観ているようなものです。真我が映画館で映画を観てるんです。この映画の内容が、ここでいう心です。心が展開する――つまり、たとえば『男はつらいよ』が始まって、寅さんがいろんな経験をする。それを観ている真我がはまっちゃって、まるで自分が寅さんになったかのように喜んだり悲しんだりしている状態が、今のわれわれの状態なんです。
 心の作用を滅尽するイコール――ではRちゃん、どういうことですか? このたとえで言うと……心は映画です。心の作用を滅尽するっていうのは?

(R)映画を消す?

 まあ、消すだね(笑)。消すというか、止めると。映画を消してしまうと。はい、映画終了しましたと。
 当然、映画が終われば、どんなに寅さんにはまっていても、ハッと「あ、終わった」と。つまり心が止まってしまえば、真我というのは自己本来の状態――幻影となって展開していたものが止まってしまうので、心が錯覚から離れる。
 でもこれは実は本当の最終的な段階ではないんです。本当の最終的な段階というのは、動いていようがなんだろうがそこに染まらない状態が最高なんです。だからここでいっているのは途中段階ではあるんだね。途中段階ではあるけども、最低限のことです。最低限のわれわれの解脱の仕方というか。つまり心の動きが止まってしまえば、どんなに馬鹿な人でもやはり映画から醒める。だからまだ真我が完全なる悟りを得ていなかったとしても、心の動きが止まってしまえば、夢から醒めるんだね――つまり悟りというか真我の状態に、元に戻ると。これがここで言っていることだね。

(K)思ったんですけど、作用がなくなって、心に何も映らなくなったら、深い意識に入っていって、そんなに慣れてない人だったら意識飛んじゃったりしません? 慣れてないと、もやもやってなっちゃうんじゃないですか?

 いや、ここで言っている心の作用を滅尽するっていうのは、そういうレベルではなくて、最終段階のことをいっているんです。最終段階っていうのは本当の最終ではないんだけど、仏教的にいうと「行」まで戻った段階です。十二縁起の無明・行・識・名色……ってあるよね。行はまだあるんです。行は流れいてる。でも行からまだ識に展開してないというか。つまりここでいう心の作用というのは、仏教的にいうと十二縁起の動きと考えると――行から本当は識・名色・六処と展開していくんだけど――行まで戻った段階だね。だからそれはそのデータというか、心のこれから発現する要素はあるんだけど、それも止まっている状態。
 普通に深い意識に入って飛ばされるっていうのは、ちょっと話が違っちゃうけども、深い意識に入って飛ばされるっていうのは、その行まで戻ったような話ではなくて、まだ途中段階だね。まだいろんなものが動いている段階です。動いているところに突っ込むから、飛ばされるんです。ちょっと物理的な話をするとね。深い意識に入ったけど、深いところにいろんなものが動いているんです。動いているところに意識がぶつかるから、ショックで気絶するんです。これがわれわれが深く入ったときに意識が飛んじゃうっていう現象だね。これはまだここでいっていることよりは浅い段階。
 で、それをプロセスでいうとね、まずは深い意識にはもちろん入らなきゃいけない。この動いているいろんなものを掃除したり、あるいは止める努力をしなきゃいけない。最初は意識を失ったり、あるいは意識はあるんだけどいろんなものが見えたり聞こえたり、それを整理したりっていうのを繰り返していって、最終的にそういったものが止まるときが来る――その最終段階をいっているんだね。

(K)相当すごいですね……

 そう。だから最初に結論をいってるんです。結論で、ヨーガの目的はここだよっていっている。この状態にならなきゃ駄目。これは一つの解脱だから、当然すごい(笑)。
 でもこれも本当の解脱ではない。本当の解脱ではないというのは、つまり全智を得たわけではない。あるいは無明を完全に破壊したかどうかは分からない。
 本当の完全なる全智っていうのは、さっきも言ったように、一切映画が流れていても全くそれに影響されない状態だから。そこまではいってないんだけど、まずとにかくその映画の流れを止めましたと。よってそれによって真我というものが、やっと自分に気づき出しましたと――ここを目指そうとまずはしているんだね。

(T)それは生活の中でたとえると、普通に暮らしながら二十四時間ずっと神といるとか、そういうふうなのが最高のところということですよね。一時的なものじゃなくて……

 そう。最終的にはね。それは完全な最後の最後だね。

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