随筆マハーバーラタ(7)「運命を受け入れる」
パーンドゥ一家は、様々な賢者から、その未来の苦難を予言されていました。
すでに多くの苦難を経験した後にも、さらに聖者ヴィヤーサから、更なる未来の苦難、そして最終的にすべてのクシャトリヤが滅亡してしまうだろうという予言を聞かされます。
落ち込む長男ユディシュティラに、三男アルジュナがこう言って励まします。
「兄上は王なのですから、王がそのように動揺なさるのはよろしくありません。運命に真正面から立ち向かい、われわれのなすべき義務をなしましょう。」
パーンドゥ兄弟は全員、『神の子』であり、また至高者の化身であるクリシュナにも祝福されています。つまり、人類の中でも非常に徳があり、祝福された者たちだということができるでしょう。
しかしだからといってそれは、ほんわかと、平和に暮らせるということを意味しないのです。
神の子であり至高者に祝福されている、徳高きパーンドゥ兄弟でさえもが、避けがたい苦悩の運命に立ち向かわなければならないのだとしたら、彼らよりも徳のないわれわれの人生に、何事もない平和を望むことなど、できるはずがありましょうか?
われわれも今、アルジュナの言葉を胸にしっかりと刻み付け、それぞれの人生を、堂々と勇気を持って歩まねばなりません。
――「運命に真正面から立ち向かい、われわれのなすべき義務をなしましょう。」
本当のことを言うならば、パーンドゥ一家が多くの苦難を乗り越えて、それによって智慧を高め、そして最終的に神によって定められた大戦争においてクシャトリヤ壊滅という役割を果たすこと、このような役割を与えられたこと自体が、彼らの徳と祝福の現われなのです。ではなぜ、ユディシュティラたちはそこで悲しまなければならなかったのでしょうか?
それは彼らがまだ、この世的な観念に縛られていたからです。「こうなったら幸福である」「こうなったら不幸である」という概念的苦楽の鎖に、縛られていたからです。
神の愛、神の智慧、神の思考、神の意思、――これらは、人智を超えています。ちょうど人間の智慧や愛を、動物が理解できないように、われわれは人間界の、しかも非常に狭い時代と国に限定された価値観の中に縛られ、幸福や苦悩を感じているのです。神の子であるユディシュティラたちですら、その罠にはまり、予言された自分たちの運命に関して、悲嘆を感じたのです。
つまりいかに徳が高いとはいえ、この点においては、パーンドゥ兄弟とわれわれは同じです。
ここで考えなければいけないことは、二つあります。
一つは、アルジュナの言葉のように、どのような運命にも堂々と立ち向かい、なすべき義務をなす、ということです。
「マハーバーラタ」全体を見ますと、明らかに破滅の運命が待っていようとも、自分の義務、使命を果たすことに喜びをもって全力を尽くす、という場面が多々あります。これは浅はかな合理的思想がはびこっている現代にはなかなかない発想ですね。
生きていると、いろいろなことがありますね。あるときは、予想される近い未来、あるいは遠い未来を案じて、悲嘆してしまうこともあるでしょう。そのときこそこのアルジュナの言葉を思い出してください。どのような運命にも堂々と立ち向かい、なすべきことをなすのです。神や自分に恥ずかしくない生き方をするのです。結果は二の次です。
もう一つの、考えなければいけないことは、そもそもわれわれすべてが実は神の愛を受け、神の祝福を受け、神の計画の下に人生を歩んでいるのだという事実です。
聖者と凡夫の違いをあげるとすれば、その真実を受け入れているか、受け入れていないかの違いです。
もし本当にわれわれの心が神と一致すれば、誰にとっても人生のすべては幸福で、愛に満ち、祝福に満ちているということがわかるでしょう。
この辺は大きな罠です。最大の秘儀といってもいいでしょう。
生まれてから今まで、われわれはひたすら、罠を仕掛けられてきました。だから今、われわれは神の愛が読み取れず、感じられなくなってしまっています。「この世の価値観」に縛られ、道を見失っています。
ですからまず最初は、自分が無智であることを理解し、神を信じること、あるいは自分を神に導いてくれる聖なる師を信じることから、修行は始まるのです。
もちろん、この「マハーバーラタ」を見ればわかるように、「神にお任せする」「神の愛を受け入れる」というのは、何もせずに怠惰になるということとはちがいます。逆に、自分の使命を読み取り、誠実に、全力を尽くして生きるということです。
自分は無智であると理解し、神を信じ、神を愛し、すべての生命を愛してください。
もし神と自分との間を繋いでくれる聖なる師に出会ったなら、誠実にその指導をあおいでください。
「神の愛とは何か」を常に考え、運命を受け入れ、立ち向かい、全力で生きてください。
その過程に何か過ちがあったとしても、もし本当に誠実であれば、必ず正しい道に導かれるでしょう。
誰もが神の愛に浴している。
しかしその恩恵に気づける者は稀である。
人は、神の愛を理解できるまでは、この世で苦しまなければならない。
神の愛と智慧は、人間の利己的知性を超えている。
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