随筆マハーバーラタ(4)「与える喜び、欲望を超えた喜び」
ヤヤーティ大王は、浮気をしてしまいました。まあ、この時代のインドの王は一夫多妻が普通で、男性の権威が大きい時代なので、それ自体はそう珍しいことではなかったのですが、その浮気相手が、妻のデーヴァヤーニーが敵のように思っている女性だったのです。そこでデーヴァヤーニーはそのことを父のシュクラに言いつけます。神通力を持つシュクラは、怒って、ヤヤーティ大王を老人にしてしまいました。
ヤヤーティ大王の「老い」を、自ら引き受ける者が現われた場合のみ、ヤヤーティ大王は「老い」から解放されるのでした。
ヤヤーティ大王は、まだ現世の欲望の生活に未練がありました。しかしこのような老人の体では、欲望を貪ることはできません。そこで大王は自分の息子たちに、自分の老い引き受けてくれないかと持ちかけます。しかし息子たちは、いくら父親の頼みとはいえそれは引き受けられないといって、断ります。
ただ一人、心優しい末っ子のプルだけが、父親の頼みを引き受けました。彼は、父親がかわいそうで仕方なかったのです。
「父上、私は喜んで、私の若さをあなたに差し上げましょう。そして父上を老いの悲しみから救いましょう。どうぞご安心ください。」
すばらしいですね。このように常に、他人の不幸を心から悲しみ、他人の幸福を心から喜び、常に他人に「与えられる人」でありたいですね。
このプルのように、自分の若さと相手の老いを喜んで交換できる境地というのは、すばらしい境地だと思います。われわれはまだそこまでいかなくても、まずは小さなことから、喜びを人に与え、苦悩を引き受けるという実践にトライするべきです。
なぜなら、それこそが、何より自分自身の心を平安で幸福に満ちたものにする道だからです。そういう意味ではこのプルという若者は、大変幸福な、至福に満ちた心の持ち主だったのだと思います。
さて、ヤヤーティ大王は、若いときから苦行者のような生活を送っていたので、自分はまだ十分に現世的な欲望を味わっていないと感じ、プルからもらった「若さ」で、徹底的に欲望を貪りつくします。「要約・マハーバーラタ」では細かい描写は省きましたが、人間界と天界を行き来して、数百年間に渡って、あらゆる欲望を貪りつくしたそうです。この時代は、今より人間の寿命が長い時代だったのでしょう。
ヤヤーティ大王は、ただ盲目的に快楽を貪っていたわけではなく、快楽を貪りつくすことで、快楽を乗り越えようとしていたのでした。しかし智慧のあるヤヤーティ大王は、ようやく途中で、「それでは駄目だ」ということに気づきました。ヤヤーティ大王はプルに言います。
「息子よ。肉欲の炎は、それにふけることで消し去ることなどはできぬ。それは火に油を注ぐようなものだ。私はそれについて学んでいたが、今の今まで、本当にそうだとは知らなかった。いかなる欲望の対象物も、人を満足させることはできぬ。われわれは、好き嫌い・苦楽を超越した心によってのみ、絶対安心の境地に到達できる。それがブラフマンの境地なのだ。」
こうしてヤヤーティ大王は「若さ」を息子に返し、息子から再び「老い」を受け取ると、森へ入って修行生活を送り、解脱し、真の至福の境地に達したのでした。
この話は、とても示唆的ですね。
実際、現代の精神世界やヨーガの世界でも、「欲望を味わいつくすことによって乗り越える」という発想があります。
しかしそれは現実的には不可能なのです。
欲望にはきりがないからです。
ヤヤーティ大王は、そもそも膨大な功徳があったのでしょう。ですから数百年、天界も含めて欲望を味わうことができました。しかしそれでも、欲望はよりいっそう増すばかりでした。
現代の、徳のないわれわれが、そんなまねをしたら、まずあっという間に、徳が尽き、悲惨な状態になってしまうでしょうね。
「快楽を貪っても、意味がない」と気づく前に、徳がつき、悲惨な精神状態になり、低い世界に落ちてしまうかもしれません。
ですから智者は、
「いかなる欲望の対象物も、人を満足させることはできぬ。われわれは、好き嫌い・苦楽を超越した心によってのみ、絶対安心の境地に到達できる。」
というヤヤーティの言葉を、心に刻み付けなければなりません。
もちろん、今の日本で、すべての快楽を拒否した仙人のような生活をおくれとはいいません。それは不可能でしょう。
バガヴァッド・ギーターでクリシュナも説くように、日々ヨーガや瞑想に励みつつ、日常生活の中で、自然に訪れる様々な快楽や苦痛を味わいつつも、それらに対する好き嫌い・苦楽を超越し、あらゆる現象を神の愛として受け入れて、何も望まず、しかし積極的に生きていくというカルマ・ヨーガの実践がよいでしょう。
ところで、最後に付け加えておきますが、現世的な欲望に無頓着になり、正しい修行に励んで行ったその先にあるものは、精神的にも肉体的にも、この世のどんな快楽も及びもつかない喜び・快楽・エクスタシー・至福に満ちた境地です。それを励みに、頑張ってもいいかもしれません(笑)。より大きな悦楽を得るために、小さな快楽を捨てるのです。その至福の境地から見たら、この世の煩悩的な喜びなど、本当に取るに足らない、ちっぽけなものなのです。
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