yoga school kailas

過去がないということと、グルは穴であるという意味について

 以下は、ある人からメールでいただいた質問への回答ですが、
 少し難しいかも知れませんが、
 他にも参考になる方もいるかもしれないので、ご紹介します。

【質問要約】

「過去も未来もない、というのは、どういう意味なのでしょうか?
 過去なんてない、という意味が分かりません。
 分かりませんというか、分からないと思うのですが、もう少し、過去がないというニュアンス・感覚に近づきたいです。
 どういうことか教えてください。」

【回答】

 それはもちろん感覚的につかむとか悟るしかないんですが笑

 言葉における解釈をする場合は、まあつまり過去・現在・未来はないということです。
 たとえばよく言うように、我々がイメージする過去って、全部イメージですよね? 実際に「過去」というものがどこかにあるのかということです笑。
 「過去」ってつまり「古い現在」ですよね。でも「古い現在」ってなんですか笑?
 未来もまたもちろん、現時点ではイメージですよね。
 まあ概念的に、終わってしまった「現在」を「過去」と言っている、と解釈した場合、
 じゃあ「現在」が本当にあるのかどうかということを検討しなければなりません。
 一瞬前であろうと、過去は主観的にはただのイメージです。
 一瞬後のことであろうと、未来はただの妄想です。
 過去と未来を離れた独立した現在はありません。
 よって現在はない笑。
 現在もないので、未来も過去もない笑。
 実際には、過去でも未来でもない、その真ん中の「今」に集中しようとすると、
 この世を超えたサマーディに入ります。
 つまり過去・未来の幻影から解放されるわけです笑。
 今に集中すると、今というこの世の経験はどこにもないことに気づく。
 今もないので、過去も未来もないのです。

【質問要約】

「グルが穴そのものであるということについて。
 映画のマトリックスでは、電話が現実世界に戻るためのツールでしたが、グルはその電話でいえば何になるのでしょうか?
 『穴そのものである』というのは、どういう意味なのでしょうか。
 『穴そのものである』から、どのようにすればよいのでしょうか。」

【回答】

 穴の例えというのは、素晴らしく真をついているんですが、マトリックスの例えとはちょっとリンクしないかもしれません。

 というのは穴の例えというのは、例え話の定義上、一応、視覚に関しては実体があると、仮に認めた例え話だからです。

 つまり我々が視覚によって真理を見ることができるという仮定の上での話ですね。
 我々は絵の書いたドームに閉じ込められている。
 このドームをぶち破れば、真理の世界を見ることができる。行くことができる。
 でもわれわれはその概念さえ理解していない。
 壁に書いてある絵を、現実だと思っている。
 その外に、真実があるという発想すらできない。
 そこで誰かが親切に外から壁に穴をあけてくれても、
 中にいる我々は、その穴から見える外の真実の世界を、それも壁の模様の一つだと受け取るということです。
 模様の一つだと受け取るという意味は、その模様全体によって統一されている世界観、統一的イメージのつじつまのなかに押し込む形で、その「穴から見える風景」を解釈し、納得するということです。
 これが、「グルがただの人間に見えてしまう」という過失ですね。
 
 穴というのをまた別の観点から言うならば、
 これも良く言うように、たとえば何もない部屋で、麻薬の幻覚に苦しんでる人に、
 現実世界の親切な人が、彼を幻覚から覚ますために、叩いたり水をかけたりした場合、
 その感覚的経験も、その麻薬患者の幻覚の統一性の中につじつまの合う形で変換・解釈され、納得されてしまうわけです。
 しかし実際は、他の幻影と、その親切な人の行為によって生じた幻影は違うわけです。
 後者にしがみつけば、救われるかも知れない。

 穴の例えに戻ると、グルだけを、自分のカルマ的感情の例外において、神と同様に絶対視した場合、
「カルマの幻影の全体性」によって「グル」が解釈されるのではなく、「グルという絶対世界への穴」によって、「カルマの幻影の全体性」が影響を受け、変容するようになります。
 そして徐々に、現実だと思っていたものがただの絵に過ぎないと気づきだし、
 グルという穴を通して、真実が見えてきます。
 しかしここで、もし彼にグルへの信よりも現実への信が強いと、
 現実が壊れるのではなく、グルが壊れてしまい、失敗します。

 また別の例えをしましょう。
 また麻薬患者のたとえですが、
 たとえば親切な人の「右!」の言葉が「歩け!」に聞こえるとか、
 その幻影の法則性があるとします。
 そしてこの人は、ある薬を飲めば、幻影から覚めるとします。
 しかし「薬を飲め」と言っても、その言葉は別の意味に彼には聞こえるので、
 結果的に彼が薬を飲むような、変数がかかった言葉を言わなければなりません。
 それを言われた方は、その言葉は彼の世界においてはちょっと変なことだったりする場合もあるので、驚いたりします。
 しかしそこで「この言葉の主は、絶対である」という信というか覚悟のもとに、そのよくわからない教えを聞き続けた場合、
 彼は薬を自ら飲むことになり、
 目が覚め、「あ、なーんだ。ありがとう!」となるわけです笑。

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