認識によって断ち切る
我々は普段、執着や怒りや嫉妬などの様々な悪しき感情に支配され、まったくそれに対抗できず、過ちを犯したりすることを繰り返す。
それは我々がそれほどまでにけがれているからなのだろうか? あまりにもカルマの力が強すぎるから対抗できないのだろうか? それとも意志が弱すぎるのだろうか?
いや、それよりも重要なポイントは、実は「認識」なのである。
これは難しい問題ではない。簡単に言えば「できると思えばできる」のだ笑。
我々はなぜ、悪しき感情に負けるのだろうか? それは、昨日も負けたからだ。そして一昨日も、その前も、いや、はるかな過去から負け続けているがゆえに、次に煩悩や悪感情が出てきても、「どうせ私はこれには勝てないんだ」という誤った認識によってギブアップしてしまっているだけなのだ。もともと負けが決まった試合をしてしまっている。
ところで、新しい年が明けましたが、正月になると毎年同じような話をしていますが、正月、新年というのは、人間が作った約束事としての観念にすぎない。しかし観念の力は馬鹿にできない。宇宙の絶対なる仕組みとしては「新年」など何の意味もないが、すべては心であるがゆえに、我々が持つ「新年=新たなる始まり」という観念は、大きな力を持つことになります。この力を利用しない手はない。
つまり前述の「はるかな過去から負け続けているがゆえに、どうせ私は自分の悪習に勝てない」という誤った認識を総リセットするチャンスなのだ。
まだ今年も二日目。だから今年は気高い意識を持って、気高い「認識」によって強く「良い思い込み」を持ち、悪しき思いを断ち切っていこう。
その前提として、特にヨーガ等の修行をしている人は、自分は「ヨーガ修行者である」「仏道修行者である」「菩薩である」「バクタである」等の、良い、気高いアイデンティティを持つことが必要だ。
それが中身のないとらわれになってしまってはもちろんダメだが、そういう良いアイデンティティは必要なのだ。変なところでニヒリスティックになったり、間違った否定をしてはいけない。
そしてそのうえで、たとえば「私は修行者なのだから、このような間違った執着などないのだ」という認識によって、悪しき思いを断ち切る。
「私は菩薩だから、怒りなどがあるわけがない」
「私はバクタなのだから、神の意に反する思いを持つわけがない」
このような認識、優れた気高い「思い込み」によって、自分の悪習を断ずるのだ。」
「私は○○なのだから、断ずることができる!」ではない。それでもいいが、それは少し弱い。そうではなくて、上記のように、「私は○○なのだから、そんなものはあるはずがない!」なのだ。さっき一瞬起きた悪しき感情は錯覚である笑。だから次の瞬間にはもうない。――そのような「認識」によって、心を気高い理想にすぐに戻すのだ。
そして繰り返すが、このような方法の最大の障害となるのが「過去もダメだったから、駄目なんだ」という思い込み、悪しき認識であり、その連鎖を観念的に断ち切ることができる大きなチャンスの一つがこの「新年」という観念なのだ。
今年からは、今日からは日々、自己の心をチェックし続け、気高いアイデンティティと共に、理想に基づいた正しい認識によって、軽々と、悪しき感情を退散させていこう。それこそが真に利益ある「念(サティ、スムリティ)」であり「正智(サンパジャンニャ、サンプラジャナ)」である。
すべての衆生が、この「認識」の意味を正しく理解し、実践し、「正しい思い込み」によって自己の気高い理想そのものになりきり、錯覚としての悪習から解放され、後にはその正しい認識や思い込みさえ不要な、気高い理想そのものになりますように。