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解説・入菩提行論(18)「菩提心の不放逸」

第4章 菩提心の不放逸

【本文】

 勝者の子(菩薩)は、かように菩提心を固く受持し、実践規律を犯さないように、常にたゆまず努力すべきである。

 急卒に始められたこと、正しく熟考せられなかったことについては、それを「なそう」あるいは「なすまい」と誓言しても差支えがない。

 しかし、仏陀および偉大な智慧ある菩薩ならびに私によって、力の及ぶ限り熟考せられたことについては、どうしてその実行を疑い迷ってためらうべきであるか。

 また、もし「かくなそう」と誓言しながら、行為によって私がそれを成就しなかったならば、一切の者を欺くこととなり、その結果、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか(悪趣に向かう他はない)。

 心で与えようと思いながら、与えない人は、たとえそれが些細な事物であっても、餓鬼となると説かれている。

 ましてや、無上の安楽を(衆生に与えようと)真実高らかに叫びながら、一切の衆生を欺いたなら、私はどこへ向かわなくてはならなくなるだろうか。

【解説】

 第四章は不放逸の章ですね。不放逸とは、怠けずに努力し、努め励むことです。

 あまりよく考えずに決めたこととか、間違った考えにより決められたことに関しては、それをなそうがなすまいが、大きな問題にされることではありません。
 しかし、菩薩の発願--すなわち、すべての衆生をこの輪廻の世界から救うために全力を尽くそう、そのために自分自身も完全な仏陀になろう!--というこの思いと実践の価値は、仏陀によって、菩薩によって、そして私自身によって、力の限りに熟考せられ、出た正しい結論なのです。ならばそれを実行するのをためらったり、疑ったり、迷ったり、遅らせたりするべきではないのです。

 この辺はすごく現実的な発想だと思いますね。人生において、大事なのは選択であり、熟考して選択したことに関しては、全力を尽くすべきです。でないと人生が無駄になります。
 私は、たとえば修行以外のことに関しても、そうだと思いますね。たとえばスポーツとか芸術とか、何かに人生をかける決意をしたとします。ならば全力で、ボロボロになっても最後までやりぬくべきです。その道を選ぶこと自体がその人の今生のカルマだとしたら、それに対してまず心を決め、決めたなら全力を尽くすべきです。
 そして菩薩とは--それは今これを読んでいるあなたもその一人かもしれませんが--菩薩として衆生のために修行し、速やかに衆生をこの輪廻から救うために全力を尽くすことに価値を見出し、そのために生きることを誓った魂です。それは偉大なカルマの持ち主であるといえるでしょう。
 しかしこの菩薩の中にも、悪いカルマや心の弱さなどによって、いったんは決めたこの道を全力で歩くことを躊躇したり、怖がったり、後退する場合があります。それを戒めているわけですね。

 そして「すべての衆生を救おう」と一度決意した菩薩が、もしそれを途中でやめるなら、それは衆生への詐欺行為であるので、私は悪趣に落ちてしまうだろう、とシャーンティデーヴァは自分を戒めています。

【本文】

 全智者は、実にカルマの法則の不可思議を知る。そこで彼は、人が菩提心を捨てた場合でも、かかる人を解脱せしめる。

 とはいえ菩薩の一切の罪過は、極めて重大である。菩薩が罪過を犯せば、すべての衆生の利益を阻害するからである。

 また、たとえ一瞬間でも、他の人が彼(菩薩)の福善を妨げるならば、衆生の利益を破ることになるので、その人が悪趣にとどまる期間は終わりを生じない。

 なぜならば、ただ一人の衆生の善福を害したとしても、その人はその身を滅ぼすであろう。いわんや菩薩の善福を妨げることによって、全宇宙に偏在する生類の善福を害するにおいておや。

 かように、罪過の力、菩提心の力によって、(菩薩は)輪廻界で動揺しながら、初地の位に達するの手間取る。

 ゆえに、私は心を用いて、誓言したとおりに、事を成就しなければならぬ。もし今日、努力しなかったならば、私は底から底へと落ちねばならない。

【解説】

 この「入菩提行論」は古い聖典であるので、意味がとりにくい部分がいろいろあります。この本文の最初の部分もそうなのですが、ここはあくまでも私の解釈で本文と解説をまとめさせていただきます。

 全智者とは完成した仏陀のことです。この完全な仏陀は、カルマの法則を完璧に理解しています。完璧に理解しているということは完璧に使いこなせるということです。それによってたくみに、人々を解脱に導きます。ここに菩薩がいて、この菩薩が菩提心を捨ててしまったとしても、彼のカルマを利用して、巧みに解脱に導くことができるということです。

 とはいえ--とはいえ、です。それでいいのでしょうか、という話なのです。
 
 たとえば、私のヨーガ教室の生徒で、将来ヨーガの先生になって本格的なヨーガを広め、多くの人を幸福にすることを願い、徐々にその道を歩き始めている人が何人かいますが、たとえば私の教室には来ないで、その生徒の開いた教室にたまたま来る人がいます。そういう人は、私とはあまり縁がなく、その生徒さんとのみ縁があるのかもしれません。その場合、その人を救うのは、私にはできず、その生徒さんにしかできないのです。
 それが縁です。たとえばあなたの周りには、あなたにしか救えない人がたくさんいるかもしれません。だから私は時々言うのですが――ちょっと重い話になりますが――修行の道、真理の道に足を踏み入れた人には、責任があるのです。自分と縁のある、しかしまだ真理とは縁のない人が救われるかどうかが、その人の肩にかかっているのです。
 特にこの文章を読んでいる皆さんのように、菩薩の修行と縁がある方。そして実際に何らかの修行や真理の実践をしている方には、大きな責任があると思いますね。それは極端に言えば、義務とさえ言ってもいいかもしれません。かっこよく言えば使命ですが、それは義務であり、責任です。
 それくらの重い責任を、自分に背負わせていいと思います。そしてその重さを、不放逸の糧とするのです。
 たとえば愛する多くの家族を持ち、彼らの現世的な幸福が自分の肩にかかっていると自認する父親は、彼らのために、喜んで身を粉にして働くでしょう。
 同様に、愛する多くの縁ある衆生を持ち、彼らの真の幸福が自分の肩にかかっていると自認する菩薩は、彼らのために、喜んで身を粉にして修行に励むのです。

 そのような認識を持つ場合、この菩薩である自分が、何か罪を犯して修行が遅れた場合――自分の解脱しか考えていない修行者にとってはそれは自分の修行が遅れるだけですが、菩薩にとっては、自分の悪業イコール、縁ある仲間たちが苦しみの世界から救われるのが遅れる、あるいは救われない、ということにつながってしまうので、大変なのです。
 だから菩薩は――まあ、菩薩の道を歩くほどの人は、ある程度の徳によって、ある程度の精神的安定を得ている人も多いかもしれませんが――そんな安定に安住していてはいけないし、気を抜いて悪業などをなしている場合ではないのです。
 繰り返しますが、縁ある衆生がいつこの苦界から救われるのか、その責任が我が肩にかかっているわけですから、そのような自覚を持って菩薩は日々、注意深く生きなければならないのです。

 さて、次に本文は、この菩薩の修行を邪魔する人の話になってきますね。単なる修行者や善人の善を妨害することも、大きな罪になるのは当たり前ですね。しかし菩薩の修行を邪魔するということは、多くの衆生の幸福を邪魔するのも同じですから、そのようなことをする悪人の罪は、はかりしれないのだと言っているわけですね。

 このようにして――つまりまだ初心の菩薩は、自分の心が奮い立ったり、意気消沈したり、あるいは他人に邪魔されたり、いろんなことがありながら、前進したり後退したりしながら進むので、菩薩の第一ステージである「歓喜」と呼ばれる段階に進むことすら、なかなか手間取るし、大変なのだ、ということですね。

 だからこそ、全力を傾けて、菩薩は自己の誓願どおりに、修行し、周りの人々に良い影響を与え、最終的に彼らをこの苦界から救い出すために、全力を尽くさなければならないのです。そしてその「全力を尽くす」時は、まさに今なのです。この恵まれた菩薩としての生を生きられる今、まさに今なのです。

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