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解説・アーナンダマイー・マーの教え(5)「心配ごと」

◎心配事

【本文】
四.人生におけるすべての心配事は、自分を成長させるための神からのプレゼントだということを、一日中、忘れないようにしてください。

 これは分かりやすいですね。読んだとおりですが、これはね、みなさんがある程度修行が進んでも、やっぱり心配事っていうのはやってきます。この世に身を置いている以上、どんな聖者でも心配事はやってきます。あるいは、苦しみもやってきます。ちょっと変な言い方だけど。でもその後が問題なんだね。聖者は心配事を喜ぶ。あるいは苦しみを喜ぶ。でも聖者じゃない人は、心配事を苦しむ。あるいは、苦しみをより苦しむ。で、どんどんどんどん暗黒に落ちていくというかな。

 じゃなくて、生きてればさまざまことがある。聖者になるとスーパーマンになって、何も心配がない、すべてがうまくいく――ってことはないよ。神の見地からいえばうまくいってるんだけど、でも人間的見地からいえば、つまり「こうやろうと思ったのにできなかった」って当然あるわけだね。例えばあのお釈迦様だって、全インド人を信者にできたわけではない。逆にお釈迦様に石を投げたり、非難する人もいっぱいいた。あるいはお釈迦様が、こうやろうとしてそうできなかったっていう事ももちろんあった。つまり、現象的な意味でスーパーマンなわけじゃないです、聖者っていうのは。

 つまり、この世は無常であって、カルマによって有為転変してるっていうのは、当たり前の普通のただの事実なんだね。ただの事実としていつもあるんです。それは凡夫にとっても聖者にとっても同じなんです。しかし、聖者はそこにこだわりがない。しかし一般の人はこだわりがある。で、修行者はその中間です。中間っていうのは、ちょっとこだわってしまう。

 しかし、こういう教えを読んで、「いや、それは神からのプレゼントである」と。ここは面白い教えだね。人生における苦しみが神からのプレゼントだって言ってるんじゃないんです。心配事がプレゼントだって言ってるんです。これどういう意味か分かりますか? つまり、なんとかして神は、「こいつを心配させてやろう」とね(笑)、それによって成長させようとする。で、そこで生じるさまざまな心の動きに打ち勝って神を信じられますかと。

 単純な苦痛とかだったら、乗り越えやすいかもしれない。ここで心配事っていってるのは、つまり何が言いたいかっていうとね、Aという事象が与えられて、これを心配する人と心配しない人がいるよね。で、これを神は与えてるんじゃないんです。結果的に心配させちゃうんです(笑)。そこまでまず持ってかれるっていうことだね。 

 「わたしはAでは全く心動きませんよ。Bでは心動きませんよ。」「おお、すごいね」――じゃなくて、これでは神の意思どおりではないんだね。神の意思は心配しないことじゃなくて、まずは心配させることなんです。心配するような現象を作り出すってのが、神の意思としてまずある。「はい、じゃあそこであなたはすべてを投げ出せますか?」「これであなたは心配してるだろう」と(笑)。「そこで、投げ出せますか?」「そこで、さあ、あなたがいつも口で言ってるその聖なる実践を、今こそするべきときですよ。できますか?」――このような試練として与えられているんだと。それを忘れてはいけない。

 でも、われわれはすぐ忘れてしまうんだね。すぐ忘れて、「ああ、どうしようどうしよう。ああ……」って(笑)、その心配事の中に没入するというか(笑)。「ああ、もうおれは終わった」と(笑)。ね。修行とか神なんて、もう完全に忘れてしまう。

 だからこれも一つ前と繋がるけども、まず優先的に考えなきゃいけないのが、神の意思、修行、あるいは人々への慈愛とかね。それがまず一番に来る。その上で、「あ、心配事が来た」「ああ、これは神からのプレゼントだ」と考えられる心の余裕がなきゃいけないね。

 これも、言葉でこういう教えを日々学んで、日々実際にそういうことがやって来たときに、そういうふうに思えるように訓練しなきゃいけない。

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