解説「菩薩の生き方」第四回(6)
◎菩薩の願い
で、この話っていうのは前に『菩薩の道』の勉強会でも何度もしたけどね。っていうことは結局――この話、Hさんが好きらしいんだけど(笑)。結局最後はどうなるかっていうと、みんな菩提心を持つことになるわけだね(笑)。だって菩薩がみんな、みんなに菩提心を持たせるわけだから。ね。よく、お釈迦様とかブッダは、「だまくらかして導く」っていわれる。だまくらかすっていうのは、最初は、「はい、ニルヴァーナだ、ニルヴァーナだ」って言うんだね。まだ菩提心の「ぼ」の字も知らない魂には、まずは解脱させる道を説く。で、いったん解脱させるんです。いったんニルヴァーナにやって、で、そのあとまたニルヴァーナから引っ張り出すんだね。「もっといい道があるよ」と。で、だんだん菩提心とかを教えだすんですね。で、最終的にはみんなに菩提心を持たせると。
でも、菩提心ってなんですか?――もう一回言いますよ。その背景には慈悲がある。つまり自分よりも他人、自分よりも他の幸福を願うと。他の幸福のためなら、自分はどんな苦しい修行も耐えましょうと。これを持つ人がだんだん増えてくる。つまりお互いがお互いの幸福を願うような状態になるんだね。
前に別の何かで書いたけど、まあ、よく、フランスの国旗の意味ともいわれる「自由・平等・博愛」っていう精神があるね。これは陰謀論の話とかでもよく出てくるんだけど。この自由・平等・博愛っていうのはね。世界を牛耳ってる人たちは、この自由・平等・博愛の実験をしたんだっていう話がある。どういうことかっていうと、つまり自由主義と、それから共産主義ね――つまり平等主義と。この、なんていうかな、戦いがあったわけですね。つまり実験だったといわれる、これは。つまり、自由が勝つのか、平等が勝つのか。結果的には自由が勝った。つまり共産主義社会はどんどん崩壊していって。つまり、なんでかっていうと、人間は怠け者だから。平等にするとみんな働かなくなると。自由で競争させた方がどんどん発展していったわけですね。しかしこれは、この発想っていうのは、非常にエゴイスティックな発想なんだね。本当の自由、本当の平等っていうのを理解していない。で、本当の博愛も理解していない。
これはちょっと陰謀論になっちゃうからあんまり突っ込まないけども、彼らが言ってる博愛っていうのは、いわゆるブラザーフッドっていうかな、兄弟愛なんだね。兄弟愛っていうのは、同胞愛なんです。つまり、「おれたち白人は」っていう世界なんだね(笑)。決して、なんていうかな、絶対的な慈愛じゃないんだね。
じゃあこの、一部の人たちが限定的に考えちゃったこれをもうちょっと昇華させたらどうなるのか。これは素晴らしい社会ができあがります。つまり、真の自由・真の平等・真の博愛とは何か。このベースになるのはもちろん博愛なんだね。つまり、仏教やヨーガでいうところの慈愛っていうものが完全にベースにあればですよ、どうなります?――慈愛っていうのは、もう一回言うけども、「みんなの幸せを願う。そのためには自分はどうなってもいい」――これは慈愛だと。この前提がもしあるとしたら、その人にとっての自由は、「みんなの幸福のために生きること」――これが自由なんだね。で、これを全員がやったらどうなります? 全員が自分以外の人の幸福のために生きるんですよ。当然、平等になりますよね。ここで自由・平等・博愛は完結すると。つまり、世を動かしてきた人たちは、本当の意味での博愛を知らなかったがために、あるいは自由とか平等っていうものを、経済とか物質的な領域にとどめて考えることしかできなかったがために、この実験は失敗したんだね。
でもここに、東洋の精神的叡智がもし加わったならば――つまりこれはまさに神の世界なんだけどね。神の世界っていうのは、みんながそれぞれの幸福を願ってる。それなるがゆえに、もう完全に自由があるわけだね。だって、エゴのことは誰も考えてないわけだから。それぞれが自由にみんなの幸福を願ってる。――がゆえに、完全なる平等があるんだね。で、これがもし地上に出現したら素晴らしい社会になる。
で、それを――まあそこまで考えてるかどうかは別にして、一人一人の人たちが、本当の意味で心の中に菩提心っていうのを持ってくれたら、彼らは解放されるだろうなと。ね。エゴから解放されて本当に幸せになるだろうなっていうことが、実体験としてわかってる。わかってるから、「さあ、みんな、修行しましょう」と。
もちろん段階的にだけどね。段階的に――まあ、わたしもそうだけどね。カイラスでもそうだけど、完全に段階的だよね。「ああ、ヨーガいいですよ」と。「気が通って健康になりますよ」と。で、だんだん進んできたら、「いや、そんな肉体の健康よりも、精神の豊かさの方がいいですよ」と。「それにもヨーガっていうのは役立ちますよ」と。で、だんだん解脱の話になっていって(笑)、で、解脱から「いや、自分の解脱よりも……」っていう話になるんだね(笑)。自分の解脱よりも、衆生の幸福を願う菩薩の道の方が――つまり、「あなたが菩薩の道をやんないと、みんなが救われない!」っていう話ではなくて、「あなたが菩薩になるならば、あなたにとってそれが最高の幸福だ」っていう話なんだね。だからわたしは、「なってほしいんだ!」と。
つまりわたしが例えばY君に菩薩になってほしい理由は、「Y君が菩薩になれば、一人菩薩が増えるから、助かる」じゃないんです。Y君が最高に幸せになる道は菩薩になることなんです。よって、本当にY君を愛してたら、「Y君、菩薩になってほしいな」って思うっていう世界なんだね。
例えばY君が、家族や親とかにいろいろ苦しめられてるとするよ。あるいは仕事で上司に苦しめられてるとするよ。――知ったこっちゃない、そんなこと(笑)。
(一同笑)
知ったこっちゃないっていうか、どうでもいい、別に。それが、なんていうかな――こんなこと言うとちょっとあれだけども、本音どうでもいい(笑)。
(一同笑)
本音どうでもいいっていうのは、例えばY君が例えば最初のころにもし、「上司が……」っていう質問をしてきたら、わたしちょっと同情した顔するかもしれないよ。「それは大変だね」って言うかもしれないけど、本音どうでもいいです(笑)。
(一同笑)
それよりはわたしが考えてるのは――まあ、これは仮の話ね。「え、Y君ってまだ、自分が怒られるとか、そんなところでとどまってんのか」と。「それは最悪だな」と。「それはかわいそうだな」と。「早く、みんなの幸福をどうすればいいかで頭がいっぱいになる人になってほしいな」と。「そこまで引き上げるにはどうしたらいいかな?」っていうことを考えるようになるんだね。なんでかっていうと、それがY君にとって幸せだっていうことがわかってるから。「『自分が悪くないのに上司に怒られちゃう』っていうことで頭がいっぱいなY君なんて不幸だ」と。「こんな不幸な人はかわいそうで見てらんない」と。じゃなくて、「自分のことはどうでもいい」と。もしくはもちろんバクティの場合は神でもいいんだけど。「神で頭がいっぱいです」と。あるいは「みんなの幸福で頭がいっぱいです」という状態になれば、いかにね、今までのしがみ付いてたエゴが、どうでもいいものか、不幸の原因であることがわかるのに、と。「なんとかそこまで行ってほしいな」っていうことを考えるようになるんだね。
だから、何度も繰り返すけども、菩薩の願いっていうのは、みんなが菩薩になることなんです。でも、みんなが菩薩になるってことは、最終的には――これがさっきちょっと話そうと思ったことなんだけど――つまり菩薩の願いっていうのは、解脱することじゃない。これはラーマクリシュナの弟子のギリシュとかも言ってるけどね。ギリシュも、「ラーマクリシュナの弟子たちは、決してニルヴァーナを求めない」と。ね。つまり、「ラーマクリシュナと共に救済のために何度も生まれ変わるから、ニルヴァーナなんて求めないんだ」という話をしてるんだけど、そうなんだね。だから菩薩の願いっていうのは、「自分が最後の魂になること」なんです。つまり、「決してわたしは、最後の一人が救われるまでは、絶対にニルヴァーナに入らないぞ」と。つまり、「何度も生まれ変わるぞ」と。ね。だからもしここにいるみんなが菩薩だとしたら、長い付き合いになるわけだね(笑)。何度も生まれ変わって、で、最後の最後に、最後の一人をニルヴァーナに送り届けて――ニルヴァーナっていうかな、最後の一人を完成させて、やっと終了と。それまでは、わたしには安らぎはないんだ!――これが菩薩の勇猛な心だね。
でも――この話のトリックって面白い。でも菩薩がやろうとしてることは実際はみんなを菩薩にすることだから、最後の最後はどうなるかっていうと、全宇宙の全魂が、みんなで手をつないでニルヴァーナに入るしかないんだね(笑)。つまり最後の最後に最後の一人をニルヴァーナに入れるっていうのもちょっと変な話。つまり最後の最後――最後の魂がいたとしてね。最後の魂を菩薩にするんです。変な話でしょ? 「お! やっとおまえ菩薩になったか」と。「じゃあ、おまえもこっち側だ」と。――そうしたらもう誰もいないんだね(笑)。救うべき魂が誰もいない。「ああ、みんな菩薩か」と。「じゃあ、終了だね」と。ね(笑)。
(一同笑)
みんな手をつないで「いっせーのーせ!」で、宇宙消滅と。
(一同笑)
これが(笑)――でも、そうなんです。宇宙っていうのは、なんていうかな、一般的にはですよ、無明だから宇宙があるんだね。でも、無明を超えた――つまり解脱した魂にとっては、宇宙は必要ない。解脱した魂が宇宙にいる理由は、人を救うため、それしかないんだね。そのためだけに、この宇宙っていうのは存在すると。だから全員がこっち側――つまり本当の意味で解脱して、で、解脱してもニルヴァーナに入らない、その菩薩の道を本当に歩み始めたら――もし全員がそうなったとしたら、もう宇宙はいらないんだね。だからみんなで一緒に「はい、入りましょう」と。これがまあ、ちょっと面白いっていうかな、トリック的な話なんだね。
実際にそういうときがいつ来るかは別にしてね。いつ来るかは別にして、菩薩の道っていうのはそれを、なんていうか、ひたすら追求していくんですね。
はい。だから、これがまあ、二番目の話ですよと。
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