解説「菩薩の生き方」第四回(2)
ただまあ、もう一つあえて挙げるならば、もう一つの柱としてあるのは、いつも言ってる、絶対者、つまり神への帰依ですね。神へのバクティ。つまりこれはインドの説法でも言ったけども、「百パーセント衆生の幸福を願う慈悲の心」「百パーセントエゴを捨てる放棄の心」、そして、「百パーセント自己を神やブッダに捧げる帰依の心」。この帰依、慈悲、そしてエゴの放棄と。これが、なんていうかな――まあこれも必要だとか、これはなくてもいいとかいう話じゃなくて、この三つが百パーセントなされなきゃいけない。百パーセントね。
ただ、重点の置き方の違いはあるんだね。ここで出てくる大乗仏教とかは、どっちかっていうとやっぱり慈悲の方にすごく重点を置くんですね。で、バクティヨーガ系は、帰依の方に重点を置くんだね。ただこれは、重点の置き方の違いって言ってるのは、いつも言うように、バクティが完全に成功すれば、慈悲も完成します。逆に言うと、慈悲も本当の意味で完成すれば、バクティも完成します。だからアプローチの、最初の程度の問題なんだけど。だから皆さんはもちろんどっちも百パーセントを目指したらいいね。
だからわたしは、いつも言うけど、皆さんはすごく徳があると思うんだね。徳があるっていうのは、まあ、今の話一つとってもそうだけどね。菩提心、そしてエゴの放棄、これのみが全修行のエッセンスである。――あのさ、このエッセンスっていう意味は、つまり――おそらくみんなには伝わってるとは思うんだけど、「何をしようとしてるのか?」っていう意味なんだね。何しようとしてんのか。わかるでしょ? 何をしようとしてるのか。つまり、あることをしようとしてて、そのためにいろんなことをやってるわけです。でもその「あること」がよくわかってない人にとっては、このいろんなこと――つまりまさに、手段と目的がちょっと入れ替わっちゃうっていう話と同じだけども、このいろんなことそのものにとらわれちゃって、「いったい何やろうとしてんのかな?」っていうのがよくわかんない。ほとんどの人がね。で、その「何をやろうとしてるのか?」っていうのは、もう一回言うと、「エゴの放棄」と「完全なる慈悲」と、そして「至高なる存在への帰依」なんだね。
で、わたしは、何度も言うけども、中学生ぐらいから修行して、この答えにたどり着くのに、まあ、そうですね、十年ぐらいはかかったのかもしれない。もちろんその十年、いろいろ探求していったのは無駄ではなかったわけだけど。でも逆に言うと皆さんは、最初のころからそれを聞いてるわけだよね。最初のころからその答えを聞けるっていう、なんていうかな、徳があるっていうか。うん。だからそれはぜひ、自分の心に染み込ませてほしいね。
もう一回言うけども、この教えっていうのは――ここでは本当にいろんな教えを勉強するわけだけども――本当に大事なことです。本当に大事なことっていうか、何度も繰り返すけど、エッセンスだから。「これさえやってればいい」っていうものです。これさえやってればいいってものっていうか、つまりすべてはここにつながるっていうかな。
もう一回言いますよ。完全なる慈悲。ね。みんなの幸福を願うと。
そして、エゴを百パーセント捨てると。
そして、完全に至高なる存在、ブッダや至高者に対して自己を捧げきると。
この三つの柱をいかに完成させるかに、すべての修行が懸かってる。すべての修行が懸かってるっていうのは、皆さんがやってる、例えばアーサナとか呼吸法とかムドラーもそうです。あるいは教学もそうです。あるいは日々の念正智、教えに基づいて正しく生きることもそうです。その教えの内容もね、例えば戒律の教えもそうだし、あるいは、ね、例えば大乗仏教で言うと六波羅蜜――布施や戒や、苦しみに耐える忍辱や、そういう教えもそうだし、あるいはヨーガの禁戒・歓戒もそうだし、すべての教えがこの三つの柱に向かってるっていうか、そのエッセンスを達成させるためなんだと考えてください。
だからアーサナ、呼吸法、ムドラーのいわゆるハタヨーガですらそうですよ。あれは例えばつまり、いつも言うけどね、本来――例えばお釈迦様の仏教や、あるいはラーマクリシュナとかもそうだけども、本来のもともとのインド仏教っていうのは、肉体を完全に軽視しています。インド仏教っていうかインド宗教ね。ヨーガも仏教も肉体を軽視しています。軽視っていうのは、肉体なんていうのは魂の牢獄であると。ね。魂の牢獄だし、で、われわれは、本来自由な、すべてに遍在する自由な魂だったのに、どんどんどんどん低く狭い世界に縛り付けられ、その最たるものっていうかな、最も狭く、最も低く、そして最も臭く、最も汚い、こんな肉体っていわれるものに今われわれは縛り付けられてしまったと。だからこんなものにこだわるなと。こんなものどうでもいいんだと。ね。
わたしもこの間、福岡に呼ばれて、あるヨーガ教室に講習会に行ってきたんですが。そこは普通の、綺麗な女性たちがたくさんいる、洒落た感じの教室だったんだけど。で、そこの参加者の一人が、「最近足が痛い」と。「これをどうしたらいいですか?」って質問があったんで、「ほっといてください」って答えたわけだけど(笑)。
(一同笑)
まあ、っていうのは、そこはもうもともと先生がいてね、この先生も、なんていうかな、インドとかでヨーガを学んできた人なんで、ハタヨーガに関してはちゃんとやってるわけですね。だからそれはまあ、その先生に任せて、で、わたしは外部の人として、別の角度から言わせてもらいますと。「気にしないでください」と。ね(笑)。つまり、そこで治したいとかいうこと自体がもうとらわれであると。ね。肉体なんて、もう一回言うけども、カルマの受け皿であると。だってわれわれは過去世からいっぱい悪いことをしてきたわけだから、当然苦しみは経験しなきゃいけないんだね。でもその苦しみの受け皿が必要なわけです。受け皿として、つまり悪いカルマの集積としてこの肉体がある。
お釈迦様も、肉体のことを「苦蘊」って言ってるんですね。苦蘊っていうのは――「蘊」っていうのは集まりっていう意味で、苦蘊――つまり苦しみの集まりだと。「肉体なんていうのは苦しみの集まりである」と。ラーマクリシュナとかもそうだね。あるいはラーマクリシュナの弟子たちも、肉体っていうものを、まあ非常にこう、どうでもいいものっていうか、悪いカルマの精算のために与えられたものぐらいにしか見てない。ただ一応、まあ、この世でいろんなことやんなきゃいけないから、そのためには、最低限肉体は大事にしなきゃいけないけども、でも例えば、健康にすごく気を使うとかね、ちょっとでもなんか体が不調だったり、あるいは美しさが損なわれたり、老いたりすると、すごく心を病む、気を揉むなんていうのは、もう本当にそれは落下の道であると。だってわれわれを下に縛り付ける道具だから、これはね。下に縛り付ける道具にそんなとらわれてたら、当然下に縛り付けられますよ。ね。そんなんでどうするんだと。だからわれわれは常に神を見てなきゃいけない。あるいは、さっき言った慈悲や、いかにみんなを愛するか、あるいはいかにエゴを滅するか、そしていかに心を神でいっぱいにするかと。これで忙しいわけだから。心がね。だから体なんてどうでもいいんだっていう発想なんですね。
で、これは、今言ったのはベースの発想です。インド宗教のベースの発想です。ちょっと話を戻すと、だから、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガが出てきたのは非常に最近です。数百年前です。インド宗教の歴史でいったら最近なんだね。で、この発想っていうのは、確かにこの肉体っていうのはわれわれを低い世界に結び付ける牢獄みたいなものだけど、しかし一応一生付き合わなきゃいけないから、逆にこの生理機能を利用して、われわれの魂をジャンプアップさせるように使ってみようかと。これがクンダリニーヨーガとかハタヨーガなんだね。だから本来は決して、現代でいわれてるような、健康のためのヨーガではないんだね。もう一回言うけども、われわれをこの肉体に縛り付けるものではなくて、われわれをこの肉体から解き放つために逆に肉体を利用しようと。これがハタヨーガとかクンダリニーヨーガの発想なんだね。だから、もう一回言うけども、じゃあその解き放つっていう意味は何かっていうと、慈悲や、あるいはエゴの放棄や、あるいは神への完全なる明け渡し、この完成なんですよね。で、そのためにこの肉体のエネルギーや、あるいは生理機能を逆に利用してしまうと。
まあ、いつも言ってるように、例えばですよ、例えばわれわれは感情に振り回され、ね、感情に振り回されるがゆえに神に心を集中できないと。「神よ!」とか言いたくても、いつも心がざわついてると。「ん? ちょっといろいろ研究してみたら、この心の感情と呼吸っていうものはとても密接な関係があるぞ」と。「あれ? なんか呼吸を整えたら心が整ってきた」と。ね(笑)。「よって、じゃあ呼吸を整えてみようか」と。「なんかいろいろやってみたけど、一:四:二がいいみたいだ」と。ね(笑)。例えばね。「しかもなんか右鼻と左鼻は機能が違うみたいだ」と。「これ交互にやってみたらなんか結構いいぞ」と。ね(笑)。「感情が治まってきたぞ」と。こういう感じで、肉体の生理機能を逆に利用して、心を整えたりとか、あるいはわれわれのエネルギーを高いところに向けて、さっき言った三つの狙いがね、達成されやすくしましょうと。これがハタヨーガとかクンダリニーヨーガなんだね。で、それはまあ現代では、健康法、あるいは美容法に堕してしまってる。あえて厳しく言うけどね。堕してるんです、これは。堕落してるんです。
わたしはまあ、最近講習会でもよくそういう厳しい――仙台でもそうだけど。仙台も、普通のヨーガの先生がいっぱい来てるわけだけど、そこでよくそういう質問が出てね、それに対して、「健康法のヨーガなんて堕落です」と。ね(笑)。で、みんな健康法のヨーガを教えてるんだけど、みんな信仰心もあるから、「そうですね……」と(笑)。
(一部笑)
で、なんていうか、仕事としては健康法のヨーガを教えてるんだけど。でも本来のヨーガとしては、ヨーガを健康のためにやるなんていうのはもう堕落なんです。もう一回言うけども、ちょっと今日は厳しいっていうかな、本質的な話をしてるけども――この肉体に強く執着したら、それは地獄への道ですよ。仏教ではね、「有身見」っていうんですけど。われわれの体の健康であるとか、われわれの体をしっかり保ちたいっていうその気持ち、これは、当然この最も粗雑な、まあいわゆるヨーガでいう「地元素」ね。つまり固体成分だね。最もわれわれの自由な精神が――いわゆる三態の変化で言うとわかりやすい。これは例えですけどね。自由な水蒸気だったわれわれが、冷えてきたわけだね。エネルギーレベルが下がって冷えて、ね、水になって、それがもっと冷えて氷になると。ここで――まあこれは一つの例えなわけですけども――水蒸気っていうかな、われわれが気体だったときっていうのは、すべてが一つであったと。水になった段階でどうなります? 水もまあある程度一つだけど、でもちょっと分離性がありますよね。つまりちょっと、なんていうかな、はねたりとか、あるいはなんかの容器に入れたら別ものになるとか、そういう性質がある。水っていうのはね。さらにそれが氷となると、すべてが氷のときは良かったかもしれないけど、一回割られたりすると、もう完全に分離される。つまり完全に個別性ができるんだね。で、これが今のわれわれなんです。つまりわれわれはこの固体成分中心の肉体にまで魂が落下してしまったんだね。で、こんなものを大事にして、いい状態を保ちたいっていう心が強過ぎるとね、それはわれわれを低い世界に落とす道なんだよっていう発想なんだね。
もちろんさっきも言ったけど、この世で修行するため、もしくはみんなを救うために、肉体をちゃんと保とうと。健康に保とうと。これはいいことですよ。そのためにいろいろやるのはとてもいいことですよ。しかし、度を越し過ぎないようにしなきゃいけないっていうかな。本末転倒になんないようにしなきゃいけない。
もう一回言うけども、ハタヨーガにしろ、この肉体をしっかり使う理由っていうのは、あくまでも道具として使ってるんだね。道具という自覚のもとに、ちゃんと利用しようと思ってるだけであって、決して肉体にとらわれているわけじゃないっていう発想がないと、このヨーガというものでさえもね、われわれを低い世界に落とす罠になっちゃうっていうかな。それは気を付けなきゃいけない。
でも、ちょっとまた話を戻すけど、ヨーガ、ハタヨーガが正しく使われたときには、それはわれわれを、さっき言った「慈悲」と、そして「エゴの破壊」と、そして「神やブッダで心をいっぱいにする」と、この三つに導くためのアイテムになり得るんですね。
だから、繰り返すけども、あらゆる修行がそこに向かってると。で、これは、皆さんももしね――まあ皆さんは今徳があるから、最初の方からこういうことを教わってるわけだけど。もし皆さんがこれを知らなかったとしても、修行をどんどんどんどん究めていったとしたら、多分たどり着きます、そこに。例えばY君とかが、「先生が言ってること本当かな?」とか言って、一人で修行したとするよ。「おれは自分で確かめてみるんだ」とか言って。で、二十年ぐらい経って、ハッと気付いて、「本当だった」と。「なんであのとき信じなかったんだろう」と(笑)。「あのときスマートに受け入れてれば、こんな確認作業は別にいらなかったのにな」と(笑)、なるわけだね。うん。でも、そういうものなんです、本当にね。発見されると。
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