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解説「菩薩の生き方」第十回(5)

【本文】

 「大悲の心ある彼らは、私を哀れんでこれを受けたまえ」という表現は、そもそもブッダや菩薩というのは、何をほしがっているわけでもありません。ですからこういう供養とか布施というのは、供養する側が、徳を積み、執着を落とし、三宝との縁を強めたいがために行なうわけですね。なぜなら、徳が無く、執着強く、三宝との縁がない状態では、その人は苦しみ多く、幸福は少なく、輪廻の苦界から脱却できるすべがないからです。だから、ブッダや菩薩方はそのような供物は必要としていないでしょうが、どうか悲惨な私のことを哀れんで、これらの供養を受けてください、と懇願しているわけです。
 これに関連するエピソードとして、マルパとナーローパの話がありますね。チベットの有名な行者だったミラレーパの師匠のマルパは、自らの師であるナーローパに会いに、インドに行くわけです。そしてチベットで何年もかけて集めた貴重な黄金を、ナーローパに布施しようとするんですが、ナーローパは、私はそんなものはいらない、と言って断るんですね。でもマルパは、「あなたには必要ないでしょうが、私の功徳の修行のために、どうかお受け取りください」と言って、懇願します。するとナーローパは、「よしわかった、それならば受け取ろう」と言って黄金を受け取るんですが、マルパが喜んだのもつかの間、ナーローパは、受け取った黄金を、森の中に投げ捨ててしまいます。マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローパは、「私には黄金は必要ない。私にとっては大地全体が黄金なのだ」と言い、足で大地を叩くと、本当に大地が黄金に変わってしまった、というエピソードがあります。
 だから繰り返しますが、三宝は我々の供養を必要としていないのですが、我々自身にとっては、三宝への供養は必要なのです。だから我々は三宝に懇願し、私を哀れんで、供養を受けてください、という姿勢が必要なのです。

 はい。これはもう、分かりやすいっていうか、読んだとおりですね。
 「大悲の心ある仏陀方は、哀れんでわたしの供養を受けたまえ」と。まあ、これがだから一般的にいう献金的なものと、それから布施・供養の違いだね。
 現代ではいわゆるお寺とか宗教団体に対する布施も献金的な感じになってるけども、本来の供養・布施っていうのは、まさにさせていただくものであると。つまり、お寺とか修行者とかが、「どうか最近お寺が傾いてるので信者様お布施してください」ってそういうのじゃなくて(笑)、そうじゃなくて、弟子や信者たちが、「どうかわれわれの幸福のために、われわれが真理を悟る礎となるために、この供養をお受けください」という気持ちなんだね。
 で、もちろんさ、特に仏陀とか至高者っていうのは、当たり前だけど、そんなものは必要としていない。ね。特に至高者、仏陀って考えた場合、それは全智者であり、あるいはまあ、宇宙そのものと言ってもいい。ラーマクリシュナも同じような表現使ってるけども、宇宙そのものであり、そもそもこの宇宙を作った存在であると考えるならば、そのお方が高々この宇宙のちょっと一部の、しかも例えばこの人間界でしか通じない概念的なお金とかいうものをね(笑)、「欲しい!」とか、「もっと布施しろ」とか思うはずがないですよね。だからそれは、まさに布施する側の、供養する側の幸福のために、供養とか布施はあるんだという気持ちだね。ですから、「どうかわれわれを哀れんで、これを受けたまえ」っていう謙虚な気持ちで布施とか供養をすると。
 そうじゃなくて、例えばまあ修行者っていうかな、宗教家とかが、ちょっと心にけがれがあると、当然そうじゃないエゴ的なかたちで布施を欲しがるかもしれない。そうなると当然、布施をする側もエゴ的なかたちで布施をする。エゴ的なかたちでっていうのは、「さあ、わたしはこれだけ布施してるんだから、どうかこれを大目に見てくれたまえ」と。今ちょっとイメージ的に言ってるだけだけど(笑)。そういった例えば政治や経済と宗教との結びつきが、例えばどんどん強まり、で、それによってちょっと本来の道から外れていくみたいな流れが、インドにおいても中国においても日本においてもあったと思うんだね。それはまあ、あまりいいことではない。
 これはお釈迦様の時代も、お釈迦様が――何度か言ったけど、お釈迦様ってね、従来のインド宗教を全部否定してるわけじゃないんです。原始仏典とか読むと、まあもともとのインド宗教の僧をブラーフマナっていうわけですが、原始仏典の中に『ブラーフマナ』っていうタイトルの経典があって。で、それを読むと、「真のブラーフマナとは」みたいな教えなんだね(笑)。真のブラーフマナとはこうでなきゃいけないと。で、昔のブラーフマナはそうだったと。しかしある時代からブラーフマナたちは国王にこびへつらい、あるいは金持ちにこびへつらい、そのために法を捻じ曲げてこういう態度を取ったりとか、あるいは王の機嫌を取るためにこういう生活をし始めたと。それによって堕落していった、みたいな教えがあるんだね。「だからそうじゃなくて、ブラーフマナはこうでなきゃいけない」みたいな教えがある。
 はい。だからそうなってしまうと、宗教っていうかな、ダルマの流れもどんどん衰退していくんですね。だからそうじゃない、もっと神聖な関係でなきゃいけなくて。
 つまり、仏陀というかな、聖なる師や、あるいは一生懸命修行にまい進する者たちっていうのは、神聖な気持ちっていうか、純粋な求道心を持って真実を追求し、で、それを布施して、あるいは供養して支えようとする者たちは、当然自分たちの利害とか関係なく、布施させてほしいと、供養させてほしいっていう気持ちでお布施をすると。
 昔、まあ、こういうね、基本的な徳とかの教えを説いてたときに、Hさんが――まあHさんにはたくさん名言があるんだけど(笑)――「供養は大変な徳になる」と、「しかも自分の師とかに対する布施とか供養は大変な徳になる」っていう話をしてるときに、まあ、Hさん自身もたくさん布施をしてたわけだけど、「え? わたし徳とか、徳を積むとか、全くそんなこと考えたことないのよ」って(笑)。「ただ布施したいだけなの」っていう話をしてて。これはとても素晴らしいね。これはとても純粋なバクタの気持ちなんだね。あるいは布施者の気持ちですね。
 これは皆さんも分かるかもしれない。布施者、あるいはバクタにしか分からない気持ちがある。それはなんの理屈もない。徳を積みたいとも思っていない。あるいは、さっき言ったことと矛盾するけども、救ってほしいとも思ってないんだね。ただ供養したいっていうその純粋な気持ち。自分が信じる、自分が愛するお方にただ供養を受けてもらいたい、っていう気持ちがあるんですね、純粋な気持ちがね。これは最も純粋な布施といっていい。
 だから段階的に――もうそういう意味ではね、ここで説いてる教えっていうのは、ちょっと超越しています(笑)。超越してるっていうのは、段階的にいうとね、例えば仏教の段階でいうと、まず第一段階、第一段階のまあ、最も低級な布施。これは、この世の利益のために布施をする。これは良いことではないが、でも入口としてはかまわない。つまり、例えばこの世でお金持ちになりたい、あるいはいろんなこと成功したい。うん。そのために、カルマの法則っていうのを学んで、あ、そのためにはすべては徳なんだなと。よって徳を積ませていただきたい、これによってわたしはこの世で幸せになりたいんです――これはもうある意味、初歩的な布施です。
 で、第二段階においては、もうちょっとその志が上がる。つまり、この世の喜びはいらないと。じゃなくて解脱したいと。あるいはもっと言えば、みんなを救いたい。そのために、菩薩になるために徳が必要だと。これは高度な布施ですね。そのために、どうかわれわれの徳のためにお布施をお受けください――これは第二段階。
 しかし最も素晴らしいのは、今言った、そんな思いさえない。じゃあなんで布施するのかってなるよね。それは、もう一回言うけども、そういう世界に入った人しか分からない、純粋な、「供養を受けてほしい」「布施を受けてほしい」っていう気持ちがあるんですね。だからこれがもしあるとしたら素晴らしいし、実際にまあ、ここにいる多くの人たちはそういう心があると思うので、その意味ではとてもレベルが高いと思うね。
 はい。とにかく、布施っていうものは受けてもらうものですよと。あっちが欲しがってて布施するものじゃなくて、こっちがこっち側のために、あるいはこっち側の純粋な気持ちとして布施や供養を受けてもらうと。
 だから、ここでいつも出るこのナーローとマルパの話なんて一番、とてもいい例なんだね。つまり、最初ナーローパは「いらない」って言って、しかしマルパは「どうかわたしのために受け取ってください」と。で、ナーローパは受け取ったんだね。つまりこの話ってなんなのかっていうと、受け取った段階でもう終わってるんです。この段階で布施終了です。だからそのあとナーローがそれをどうしようが関係ないんだね。で、ここでナーローが布施された黄金を森に投げて、マルパがちょっと悲しい気持ちになっちゃったっていうのは、まだマルパがちょっと完成してないっていうか、まだ未熟な部分があったんでしょうね。だからまだその師弟におけるそういうものがよく分かってないっていうか。
 ナーローは、あの『ナーローの生涯』を見たら分かるように、もう完全に後半はそういうところが、分かってるっていったら変ですけど、完全に悟ってるから、もう完全にグルと一体化していて、何やられてももう歓喜であると。
 ちょっと新しい人もいるのであれだけどさ、『ナーローの生涯』のクライマックスの、もうとんでもない、わけ分かんない話があるよね。グル・ティローがナーローに「女を買え」と指示して。まあ当時は女性を買うことができたので、女性を買って、で、グルの指示で一緒に暮らし始めると。で、おそらくまあ結婚はしてないだろうけども、結婚生活に近いような感じで長い間暮らすはめになるんだね。で、しばらく経ったあとにグルがやって来て、叱るわけですね。「おまえ、修行者のくせになんで女と暮らしてるんだ!」と。ね(笑)。ナーローからしてみれば「あんたが言ったんだろ」って感じだろうけど(笑)。で、「自分で自分を罰しなさい!」って言われて石を渡されて。で、普通の現代的な合理的な人だったら、「とんでもない! パワハラだ!」って言うかもしれない(笑)。しかしナーローは素直に、「そうです、わたしが悪い」と。「こいつのせいだ」って言って、その石で自分の性器をガンッて打つんだね。そしたらナーローパはあまりの痛みに気絶したと。
 で、そこにティローパが、グルがやって来て、ナーローに触れて、で、傷が癒され、「少なくともまた小便がたせるようになった」って書いてある(笑)。それだけ見るとなんか意味が分からない(笑)。
 で、そのあと、ナーローと一緒に住んでた女の子ね、まあ長く暮らしてたから、ある意味かなり愛着もあっただろうけど。で、このティローが、いいですか――まず、「おまえは女を買って一緒に暮らせ!」って命令して、で、しばらくそのとおりにしてたら、「修行者のくせになんで女と暮らしてるんだ!」って怒られて、で、そのあと、「おれによこせ」って(笑)。「おれにその女をよこせ」と。で、「よこせ」って言うんだけど、その女性がちょっと嫌がるんですね。嫌がったら、「おまえはおれよりもナーローが好きなんだな!」って言ってその女性を殴ったっていうんだね。
 で、ここまでやって、「さあ、どうだ、ナーロー。幸せか?」って聞くんだね。そしたらナーローは「幸せです」って(笑)。

(一同笑)

 もう、わけが分かんないよね(笑)。でもこれは、なんていうかな、どんどんエキセントリックな方に進むわけだけど。表面的にはね。でもどんどんどんどん、つまり、観念をもうぐじゃぐじゃに壊して、しかしどんな状況にあっても、つまりなんの理屈もなく、あるいはなんの合理性もなく、ただただ自分をグルに捧げる。ただただ自分を聖なるものに捧げることが喜びだっていうことが、なんていうかな、徹底的な、一切の、塵ほどのけがれもなく、塵ほどのマイナス面もなく研ぎ澄まされてるっていうプロセスがあるね。ここまでくるともうかなり超越的ですけど。
 ですからもう一回言うよ、供養の気持ち、あるいは布施の気持ちっていうのは、全くギブアンドテイクがない。言ってみれば、ある意味かなり超一方的です。まあバクティヨーガっていうのはだいたいそうなんですけどね。もともと保障とか、あるいはギブアンドテイクとか、あるいは見返りとかは全く求めてない。
 これも段階的にですよ。中間段階においては聖なる見返りを求めてかまわない。聖なる見返りね。つまり、わたしはこの世のものは求めないが、わたしは菩薩として成長することを求めるとかね。あるいはバクタとしてあなたのそばに行けることを求めるとかね。これは中間段階としてはオッケー。しかし、ほんとに極限になると、それさえも求めない。ただ一方的な愛、あるいは奉仕、あるいはまあ、道具として尽くすと。ただそこだけに喜びがあって、そこからの、なんていうかな、リターンっていうか、それが聖なる高度なものだったとしても、何も求めない。ちょっと誤解を恐れずに言えば、解脱さえも求めない。あるいは神と一つになることさえ求めない。すべてをおまかせすると。これがまあ、高度な段階だね。
 はい、ちょっと話を戻すけど、その最高の究極の段階まではいかなかったとしても、実際に布施をするとき、あるいは供養をするとき、あるいは奉仕をするときには、やはりそういう気持ちでなきゃいけない。つまり、布施させていただいてる、供養させていただいてる、あるいは奉仕させていただいたこと自体でもうそれは完結してるんですね。だからこの世における現実的な、それがどう使われようが、それは全く関係がない。だからそれは、それがさっきから言ってる、布施・供養と、それから現世的な献金とかとの違いですね。

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