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解説「菩薩の生き方」第十回(3)

【本文】

 それら三宝に対して、まずここで言っているのは、心の中で、想像できるだけのすばらしいものを想像し、供養するイメージをするということですね。
 密教においてはこういった供養の瞑想というのはどんどん発展していきます。「私は福善なく、はなはだ貧しい。他に供養すべき何ものも私にはない。」となっていますが、そもそもこのシャーンティデーヴァがこの教えを唱えたときというのは、彼が僧院の出家修行者だったときですから、個人的な資産や持ち物がないのは当たり前なわけです。しかしここで表現されているのは、たとえばシャーンティデーヴァは、もし何か財産があって、しかも目の前にブッダがいたとしたら、たとえどんなものでも、惜しみなくささげるでしょうと。そういう強い供養の気持ちがもともとあるわけです。しかし自分は今何も持っていないので、自分の想像力を使って、あらゆるものを三宝にささげているわけですね。
 実際、本心から供養の気持ちがあり、そして心がこもっているならば、このような瞑想による供養でも、功徳となり、三宝との縁は強まります。何故でしょうか? 瞑想によるイメージの世界も、この現実世界と呼ばれる世界も、どちらも幻影に過ぎないからです。
 しかしたとえば瞑想では供養ができるけれど、現実では自分の持ち物を三宝に差し出すことができない人がいたとします。こういう人は、供養の瞑想をしたとしても、あまり効果はないでしょう。だから心をこめることが大事なんですね。
 繰り返しますが、もし自分が何かを持っていたら何でも惜しみなく供養することができるような供養の心を持っている人が、このような供養の瞑想を行ない、初めて大きな効果が生み出されるのです。
 これは悪業についてもいえます。たとえば嫌いな相手に対して、現実には行なわなかったとしても、相手を殴ったり殺したりするイメージをした場合、これは実際にそれらを行なったに近いくらいの悪業になります。なぜなら、心がこもっているからです。

 話を戻しますが、仮にまだ供養の気持ちが強くない人でも、この瞑想は行なうべきです。最初は瞑想だけでも、このような供養の瞑想を行なうことで、徐々に執着は弱まり、徐々に徳が増え、三宝との縁も徐々に強まってくるとはいえるでしょう。しかし本当に供養の気持ちが強まったときこそ、この瞑想は最大の効果を発揮するということですね。

 はい。ここのところは、これも何度も言ってるような話ですけども、供養の瞑想ね。まずシャーンティデーヴァがいわゆる想像力における供養の祈りをいろいろと、例えば「もろもろの花と果実と云々」とか、「虚空界に広がる限りの器にも云々」っていうイメージを展開してるわけですね。で、それがここに書いてあるように、ほんとの意味で心から供養の気持ちがあれば、その瞑想だけでも現実に供養したのと変わりない、あるいはそれ以上の効果がある。
 で、もともと、皆さんもやってるマンダラ供養っていう瞑想法、あれはもともとは昔の真剣な修行者たちが、貧しいと。貧しいけども仏陀や神々に供養したい気持ちでいっぱいであると。よって、イメージで、想像力で供養するために作り上げた体系なんだね。だからそのような人たちが――つまりここにも書いてあるように、もちろん昔の修行者っていうのは経済活動してないわけだからお金がないわけだけど、仮にお金があったら全部捧げると。
 まあ、この間も同じ話をしたけど、例えばマルパの弟子のゴクパみたいなもんですね。マルパの弟子のゴクパは、ある程度修行が進んで、まあ高弟だったので、若干離れた地域に住んで、自分は自分で信者を持って、一つの、なんていうかな、コミュニティを持っていた。で、当然そのコミュニティにおいては自分が一番トップだから、多くの信者や弟子から多くの布施を受けて、まあ、大変な財産をため込むわけだけど。あるときグルのマルパが、息子のための式典を開くっていうことで、「弟子よ、集まれ」ってなったことがあって。で、そこにゴクパも行くわけだけど、そのときに、それまで集めた財産すべてを持っていったっていうんだね。つまり、もう言ってみればグルのもとを表面的には離れて独立してるんだけども、自分が信者や弟子から布施されたすべての財産をグルに持っていったんだね。で、それはもうあらゆるもの、隅から隅まで持っていったと。家財道具から何から全部、あなたへの捧げ物ですって言って持って行ったと。
 だからこれだけの、もともとの供養の気持ちね、もし何かあるならばすべて捧げたいっていう気持ちがあって、しかし普通は修行者っていうのは貧乏であると。よって想像力によってその心を表現するのがこういった瞑想なんだね。
 前にも言ったけど、例えばあるチベットのリンポチェが日本に来て、「デパートに行きたい」って言いだした。で、そのガイドの人たちは、「え? なんか買うのかな?」と思って(笑)。「せっかく日本に来たからなんか買い込むのかな?」と思ってたら、何も買わないでそのデパート中を歩き回ったと。つまり、供養の瞑想をしたんだね。つまり、実際の物があった方が瞑想しやすいから。チベットとか、インドの亡命の地にはもちろんそういう素晴らしい近代文明のものってあんまりないからね。でも日本のデパートとかに行けばたくさんの供物がいっぱいあると。ですから見て回って供養しまくったと。
 あるいは別のあるリンポチェも、アメリカに初めて渡ったときに、アメリカのスーパーに行ったらもうたくさんの食料品や雑貨がいっぱい並んでいると。それを見て感動した。「こんなに供養の瞑想に適した場所はない」って言って、スーパーを歩き回って供養しまくったっていう話があって。
 ですからもうほんとにもともとそういう気持ちがあってはじめてこれは成就するっていうかな、効果を生むものなんだね。
 はい。で、この中盤に書いてある話は分かりますね。つまり、なぜこの想像力、イメージの瞑想が効果を生むか。それは、本当のことを言うと、そのイメージの世界も、あるいはわれわれが現実と呼んでる世界も、どっちも変わりないからです。どっちも心の世界です。しかし、われわれはこっちの世界をすごく信じています。で、イメージはまあ想像だと思ってる。よって、実際こっちの世界でやることの方がわれわれの心に訴えかけるんですね。ですから、ここにも書いてあるように、もしわれわれが心では供養できるけど現実的には布施できないとしたら、その人はそもそも布施できない人なんです。つまり布施の心が実はない。なんていうかな、偽善的な感じで布施のイメージをしてるだけであって、本当にその人が布施できるかどうかは、この現実世界でそれができるかに表われる。だから逆に言うと、想像力だけでも徳を積めるのは事実だが、本当の意味で供養の心がないとそれは力は生まれない。じゃあ本当の意味で供養があるかどうかは何によって測れるんだと。それは現実世界でできるかどうかである。だから、この辺は言葉のトリックがあるので気を付けなきゃいけない。
 大乗仏教とか密教とかになると、もともとの原始仏教に比べて、より心の世界の比重が高くなるんですね。だから心こそすべてだっていう教えになってくる。ここもだからちょっと履き違えると、心がすべてだから現実には何やってもいいんだっていう感じになりがちなんだね。でも実際はそうじゃない。心がもし高い状態にあるっていうことは、当然この現実においても聖者のような活動ができるっていうことです。
 つまり、もう一回言うよ。今のここの布施だけについて言うならば、そもそも心から供養の気持ちがあるんだったら、当然この世においても、もしその人が何か持ってるとしたら、もうほんとに心からなんでもかんでも供養できるはずなんだね。だから例えば、「いや、わたしはマンダラ供養で徳を積んでるんです」と。「わたしはいつもマンダラ供養をやると歓喜になって、だからとても供養の気持ちがあるんだと思います」って言ってる人が、例えば全く現実には布施したことがないとかね。あるいは例えばお金たくさん持ってるのに、あるいは物質とかいっぱい持ってるのに全然布施しようっていう気持ちがないとか、実際に布施をしないとか、あるいは「布施しろ」って言われてもしないとかね――というのがあるとしたら、それはもうほんとに偽善的であってね、実際そのマンダラ供養における歓喜とかも勘違いかもしれない。
 ですから、逆にいうとすべては心なんだが、最もその心を開発するのに有効なのがこの現実世界なんです。これがだからよく言うように、慈愛とか怒りの教えについてもそうですね。つまり、慈愛とかっていうのは心の問題だけども、しかしわれわれは心の中で瞑想で慈愛、慈愛、慈愛っていってても、なかなか慈愛は発展しない。なんでかっていうと、なんていうかな、負荷がないからね。負荷トレーニングするものがないから。この現実生活だと、自分の慈愛が阻害されるような、つまり怒っちゃう相手(笑)、ちょっと嫌な相手、あるいは気に障る相手が出てくる。で、この現実生活で、その気に障る相手やイライラする相手がいっぱいいる中でみんなを愛せるかっていう問題が出てくる。だからこういった現実生活におけるトレーニングがないと、なかなか心は発達しないんだね。
 だから布施とか供養も同じで、例えば皆さんの場合ね、当然日々働き、その中から、具体的にいうと入会金とか月謝とか、あるいは人によってはもっとお布施をしたいとか思ってると。しかし現実生活におけるいろんな、まあ、実際に経済的に貧しかったり、あるいは観念的に「これくらいはないと」とかいろいろあると。で、それとの戦いの中で、清らかな気持ちで、できるだけお布施をしたいっていう思いによってお布施を日々すると。このような、心の葛藤との戦いがあってお布施をするとか、こういった行動があって本当の意味で心の供養の気持ちが開かれていくんだね。
 もちろんこれはお金の布施だけじゃないけどね。自分の時間であるとか、自分のエネルギーであるとか、あるいはいろんな意味での奉仕、布施、供養っていうものを、この現実生活で自分のエゴと戦いながらやることによって、目に見えないけども本当の意味での心の奥の供養の気持ちが育っていくと。で、それがほんとにパワーを生むんだね。
 で、それくらいの供養の気持ちができた人が、例えばマンダラ供養なり、あるいはその他の供養の瞑想をやるならば、それはね、この世で多くの物品や財宝や素晴らしいものを現実的に布施したと同じ、あるいはそれ以上の結果を生むんだっていうことですね。

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