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解説「菩薩の生き方」第十四回(1)

2015年11月7日

解説「菩薩の生き方」第十四回

【本文】

 私は病人の医薬であり、また医者でありたい。病気が完治するまで、その看護人でありたい。

 飲食の雨を降らして、飢えと渇きの災厄を滅ぼしたい。飢饉の時代においては、私は飲食となりたい。

 貧しい衆生のために、私は不滅の財宝となりたい。いろいろの種類の日用品を、彼らの前に供えて奉仕したい。

 すべての衆生の利益を成就するために、私は自己の身体と、財産と、快楽と、過去・現在・未来の三世に積んだあらゆる功徳とを、無頓着に捨て去る。
 ニルヴァーナとは一切を捨て去ることである。そして私の心はニルヴァーナを求めている。もしニルヴァーナを達成するために一切を捨て去るべきであるならば、それを衆生に与えない手はない。

 すべての生類に対し、この私の身は、彼らの欲するままにゆだねられる。彼らが常に我が身を打つもよし、罵(ののし)るもよし、ゴミをあびせるもよい。玩(もてあそ)ぶもよし、嘲笑(あざわら)うもよし、ふざけるもよい。私は身体をもう彼らに与えてしまったのだ。どうしてそれに私が思い煩う必要があろう。
 
 彼らに幸せをもたらす行為ならば、何なりとも、(私を使って)彼らはなすがよい。
 しかし、いかなる場合でも、私のせいで誰かに不幸が起こるということがあってはならない。

 もし私によって、人々に怒りの思い、あるいは清らかでない思いが起こったならば、それは彼らにおいて、常に一切の利益を成就するための原因となれ。

 私を誹謗し、その他損害を加え、また嘲笑する人々――これらすべての人々は、覚醒にあずかる者たれ。

 『菩薩の生き方』は、もう一回言うと、『入菩提行論』の解説ね。『入菩提行論』は、繰り返しますが、仏教の経典、あるいは論書っていうのは、無数にっていうか、ものすごくたくさんあるわけですけども、その中でも、特に大乗仏教における、まあ最高の論書と言ってもいい書物ですね。
 日本は一応は分類的には大乗仏教の国っていうかな、大乗仏教が中心となった仏教国ですね。しかしまあ実際にはあまりその大乗仏教の本質っていうのは知られていないっていうか。まあ、そうですね、もちろん、例えば親鸞なり、空海なり、道元なり、そういった開祖様方はまあ、ある程度何かをつかんでいたのかもしれないけども、実際に民衆に伝わる経典というかたちでは、まあ、あまり真髄的なものは伝わっていないと。
 しかしこの『入菩提行論』は――インドでは仏教は滅んでしまったわけだけど、そのインド仏教の全体が伝えられたといわれているチベット仏教においては、まあ非常に重要視されてる経典ですね。で、何度も言うけども、ダライ・ラマ法王がチベットからインドに亡命するときに、亡命なのであんまりたくさんの物を持っていけないので、経典はこの『入菩提行論』一冊だけを持っていったと。まあ、それだけ重要な経典であると。その解説ね。
 で、この『入菩提行論』は、前にも言ったけども、何が素晴らしいかっていうと、もちろん菩薩道、大乗仏教のエッセンスが詰め込まれてるって意味でもあるんですけども、同時に、ただの論理的な書物ではなくて、それを読むことによってわれわれが、菩薩としての心、あるいは大乗仏教の本質をつかむための具体的なシュミレーション、それをしっかり読んで、考え、自分に当てはめていくだけで、実際の菩提心、菩薩の心が身に付いていくような経典なんだね。非常に素晴らしい。はい。その解説ね。
 で、この解説は、わたしが、まあ、勉強会ではなくて、書き下ろしで書いたものなので、非常にシンプルに、わかりやすくまとめてあります。まあ、ただ、もう一度ね、これを深く掘り下げ、あるいは復習してね、またしっかりと身になるようにしましょうというのがこの勉強会ですね。
 はい、じゃあ、この本文の解説のところをちょっと見てみましょう。

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