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解説「菩薩の生き方」第十六回(5)

 はい、そして人間に生まれたとしても、やっぱり条件が必要だよね。その一つは、まず時代的な意味で、そこに真理があるかっていうことね。つまり今はお釈迦様が数千年前にインドに登場し、その後もさまざまな聖者方が現われ、で、いろんなかたちでこの地上に真理っていうのが残されていると。だからわれわれは大変ラッキーだね。つまり、ない時代もあるから。今言った地獄から天までのいろんな過酷な条件を乗り越えて、ついに人間界に生まれたと。「今の時代、真理ありません。」――ガーン!って感じですよね(笑)。だから、われわれは真理がある時代に生まれたっていうことを喜ばなきゃいけない。
 次に、今度は国の問題。つまり時代的に真理があったとしても、その国に真理がないっていう場合がある。具体的にいうと、例えば宗教を否定する共産主義の国とか、まあ特に社会統制される北朝鮮みたいな国に生まれた――まあもちろんわたし北朝鮮は行ったことないからよく分かんないけど(笑)、一応一般的に言われてるように、宗教っていうのは完全に否定され、そして完全に思想統制されると。小さいころから徹底的に唯物論的な思想を埋め込まれたとするよ。そしたら、実は地球のある部分では真理っていうのはあるかもしれないけども、その国に生まれてしまったら真理はないと。だからわれわれは北朝鮮のような国、あるいはね、よく仏典では「辺境の地」っていう言い方をするんだけど、文明が全くないような世界ね。実際にさ、よくネットとかで最近見るけど、実際に現代でもまだ文明国との関わりを断ってる国っていうか民族とかがいるらしいね。なかなか、なんていうかな、文明国のテレビの取材とかもなかなかたどり着けないようなね、そういうのもいると。あるいはある程度交流があったとしても、土着の、あまり高い教えでない、例えばシャーマニズム的な、あるいはただただ霊的なものに祈りを捧げるとか、そういったものに支配された、真理っていう意味での文明がない国に生まれると。この場合も、つまりその国っていうのは、非常に狭い世界で世界ができあがっちゃってるから、なかなか――あのさ、つまりわれわれは今日本という国に生まれ、もちろん欧米とかもそうだけど、ある程度選択肢が得られてますよね。これはだから素晴らしい。つまりこの日本に生まれたら、いろんな情報が最初から入ってきて、もちろん修行を志すこともできると。もちろん逆に唯物論者になることもできる。いろんな選択肢があるよね。でもそうじゃない、今言ったような北朝鮮、あるいは非常に狭い世界の民族とかに生まれたら、選択肢がない。世界っていうのはそういうもんだって思ってしまう。人生っていうのはそういうもんだっていう中で生きなきゃいけなくなる。そうなると、ほんとの真理っていうものに出合うチャンスはなくなってしまう。
 だからこれも――まあ、こういうことをね、チベット仏教とかでは初期の段階からずーっとね、リアルに考えるんだね。だから皆さんもそういうことをたまに考えたらいいかもしれない。リアルにね――ああ、北朝鮮に生まれなくて良かったなと。北朝鮮に生まれてたらどうなってただろうと。あるいはどっかのほんとに全く文明の届かないような所に生まれなくて良かったなと。そこに生まれてたら今ごろ真理のしの字も知らなかったかもしれない。われわれは少なくとも、ある程度は思想の自由があり、あるいはいろんな情報の選択の自由がある国に生まれて良かったなと。

 はい、そしてさらに言うならば、今度は自分自身の問題もそうだね。自分自身の問題としては、まず無智じゃなくて良かったと。ここでいう無智っていうのはもちろん、まあいろんなパターンがあるけども、まず完全な、なんていうか、例えば脳に障害があるとか、あるいは非常に知能が低いとかね。まあそれでも修行できないことはないよ。それは周りのサポートによって。でも現実的にちょっと、そういう状態だった場合、これは動物界と非常に近いかたちで、せっかく人間に生まれたのにあまり修行ができないと。
 はい、次に今度は、なんていうかな、智性的なっていうか、智慧における無智ね。つまりそれは修行、あるいは真理に気付けないっていうことです。これはいつも言うけど、別に学校の勉強できたって、そういう意味では無智な人はいっぱいいると。ね。例えば東大や、あるいはヨーロッパの偏差値のものすごく大学に入れる人でも、真理には気付けない人はたくさんいると。だから真理に気付けるかどうか、これと、単純に学校の勉強ができるかどうかは全く違う。そういう意味での智性ね。そういう意味での智性が、なんていうかな、真理のセンスっていうかな、あるいは、もちろん縁といえば縁なんだけど、直感的な帰依っていうか、そういうのがないと、人間の体を得た、そして真理のある時代に来た――でも気付けないかもしれない。皆さんはそういう意味での無智でもなかったと。
 だから別に、よく、「いやあ、わたし頭悪くて」って言う人いるけども、別にそういう意味での頭の良さ悪さなんていうのはみんな五十歩百歩だから、あんまり気にする必要はない。それよりもハッと真理に気付けるかどうか。あるいはさ、教学におけるエッセンスをつかむのも、普通の学問的な頭の良さとちょっと違うからね。こうでこうでああでって論理的に考えられたからって、必ずしも真理のエッセンスをつかめるとは限らない。論理ではつかめないようなエッセンスがいっぱいあるからね。だから、それをある程度、そこに引っ掛かるだけの智性はあったと。これも喜ばなきゃいけない。
 で、皆さんには当然無智のカルマはいっぱいあるよね。もしかすると、無智のカルマがもうちょっと高かったら気付けなかったかもしれないよ。ギリギリ大丈夫だったのかもしれない(笑)。今生ギリギリ大丈夫だったのかもしれないよ。もうちょっと皆さんが無智のカルマいっぱい積んじゃってて、だからさっきの猫とかと同じでね――「え? ヨーガ? 修行? カイラス? なんか引っ掛かるけど……まあ、いっか」と(笑)。「今日も楽しく現世で遊ぶか」と。こういう感じになってたかもしれない。なんとなくこの辺まで出かかってるんだけど、まあいいかと(笑)。でも皆さんは、少なくともこの道に足を踏み入れるだけの智慧はあったと。これを喜ばなきゃいけない。
 はい。あるいはまあ、いろんな細かいパターンはいろいろあるわけだけど。例えば、今のとちょっと似てるけどね、われわれが例えば表面的に仏教とかヨーガとかの教えに巡り合ったとしても、やはりその真髄が分からず、ただただ表面的な論理をこねくり回す、あるいは真髄ではない部分に引っ掛かり、その概念的なところで満足してしまうような人たちもいると。で、そうじゃなかったと。そうじゃない、ほんとに修行して真髄をつかもうとするこの流れに入れて良かった、とかね。いろいろもっと細かく考えれば無数にある。われわれが真理に巡り合えない原因ね。あるいは修行できない原因。これを全部乗り越えてきたと。これを仏教では日々しっかりと考えなさいっていうんだね。なんでかっていうと、この稀有なるチャンスはいつ終わるか分かんないからね、いつも言うように。で、終わっちゃったら、またものすごい確率を乗り越えないとその素晴らしい状況には出合えないわけだから。だから今与えられたこの稀有なるチャンスがほんとに稀有なるものだと考えて、初心に返って、一分一秒も惜しんで全力の努力をし続けなきゃいけないんだと。
 はい。ちょっと話が広がっちゃったけど、だからここでの願いは、まず衆生も、今言ったようなね、すべてのいろんな真理に出合えない状況を超えますようにと。だから言い方を換えれば、しっかりと真理に出合えますようにと。

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