解説「菩薩の生き方」第十八回(9)

「(人間界に生を受けるという貴重な)機会に恵まれながら、もし私が繰り返し善を修習しなかったならば、これにまさる欺瞞はなく、またこれにまさる愚かさはない。」
これもまあ、さっきから何度も言ってることですね。もう今、今がチャンスですよと。ほかの生だったらまだ分かるかもしれない。ほかの、真理がなくて自分も修行するカルマがない生だったら、もうわけが分からなくなっちゃっていろんな悪業犯しちゃった――これはもうしょうがないかもしれない。あるいは今生でもまだ真理に巡り合ってないときだったら、しょうがなかったかもしれない。でも今巡り合ってるでしょと。しかもこの人間の体を得て修行ができるっていうチャンスは、魂の旅の中で、ほんとに稀であると。稀なチャンスであると。っていうか、そこしかないと。それまでは怠けてもよかったかもしれないけど、ここしか無いときに怠けたり、修行しないとか、全力を出さないとか、意味が分からないと。何やってるんだと。ね。
そこのみが――そこのみがっていうか、さっき言ったように、カルマヨーガによってどんなことでも努力はするべきなんだけど、しかし実際に、本当に利益のある、価値のある努力ができるチャンスね、それはそこのみなんだと。そして皆さんは「へ~」じゃなくて、「今だ!」と。「いや、今の皆さんのことですよ」と。「皆さんの今のこの環境のことですよ」と。ここ、今の皆さんの状況こそが、魂の流れにおいて唯一全力を出す価値のある――逆に、ちょっとでも怠けたら、何やってるんだと、多くの賢者が嘆くような時期なんだね。
これはさ、ほんとに冗談みたいな話だけど、そういうことは繰り返しやっぱり考えなきゃいけない。まさに今こそラッキーチャンスであると。なんで今やらないんだと。今やるときでしょうと。
はい。それもだから、繰り返し繰り返し――こういう話はほんとにほんとに、いろんなところに出てくる。それだけ重要だっていうことですね。それだけ真実であって。でもわれわれは馬鹿だからすぐ忘れるから、繰り返し繰り返し、それについて考えなきゃいけない。
はい。しかしこの最後に書いてあるのは、こういうことはわれわれは何度も学び理解してるんだが、それなのにわれわれは修行を怠け、あるいは悪業を犯し続けてきたと。そしてこれからもそうするであろうと。かろうじて、やっと、なんとか――もう客観的にストレートに見れば分かりやすいんだね。つまりこの条件――人間として生まれ、ダルマがあり、グルもいて、修行があり、自分も修行できる条件が整った、これをまず得ることが難しい。で、これを得なければ救われない。で、これを得たらそこに全精力を注ぎ込めば救われると。このシステムを分かってたら――ゲームとかでね――分かってたら、「ピーン! ラッキーチャンス!」「うおー!」ってなるでしょ。「ここしかない!」ってなるでしょ。これを外したらもう終わってしまう。終わってしまうっていうか、もう次いつ来るか分からない。で、それを客観的に見てたら、まさにそこだ!ってなるよね。でもなぜかやらない。ここ逃したらまた地獄とかひどい状態になるのは分かってるのに。で、その本人も分かってるんですよ。ゲームの主人公であるその修行者も分かってる。「ここしかないんだな」って分かってるのに、やらなかったり、あるいは悪業を積んだりしていると。いったいなんなんだこれは、と。で、これをシャーンティデーヴァは「あたかも呪文によって惑わされたかのように」って書いてあるよね。まさにそういう感じです。
皆さんはだから、あのケツン・サンポの話にあるように、ケツン・サンポのグルが「死ぬときに後悔しないように全力を尽くしておきなさい」って言ったように――で、このケツン・サンポが素晴らしいのはさ、ケツン・サンポの自伝で、「そういうことをグルに言われた」と。で、晩年にそれを振り返った話で、「どうやらそれは、わたしはもう達成できた」と。「だからグルの言いつけを守ることができた」って。それ、すごいことだよね。つまりそれだけ自信を持って、「後悔しないくらいにわたしはもう修行を全力でやり尽くした」と、「いつ死んでも後悔はない」ぐらいまで言えてると。それはもう素晴らしい。そこまでいけば素晴らしいけども、しかし普通は、分かっていながらできない。全力を尽くせない。このまま死んだら皆さん、もちろん、ここにいる多くの人は後悔するでしょう。ああ、もっとやっとけばよかったと。
死はほんとにいつ来るか分からないよ。いきなり車にひかれて死ぬかもしれない。で、その死ぬ直前に後悔するでしょう。ほんとにやっとけばよかったと。こんな素晴らしいチャンスを今生得たのに、おれは何をやってたんだと。こんなに早く死が来るとは思わなかったと。ほんとやっとけばよかったと、後悔するでしょう。これはほんと冗談じゃなくて、本当の話。
まあ明日死ぬとかさ、それは分かりやすい話だけど、明日どころかさ、つまり仮に三十年後でも皆さんそう思うかもしれないよ。怠け続けて、おじいちゃんになって八十歳になって死ぬときに、「もう本当にやっとけばよかったな」と(笑)。ね。「若いころ、もっとやっとけばよかったな」と。「なんであのときもっと努力しなかったんだろう」と。しかしまさに後悔先に立たずであると。だから繰り返し繰り返しこれを考えなきゃいけない。
もちろんこの中でさ、ある一定の人は、「いや、おれは全力でやってる」っていう人もいるでしょう。あるいはかなり真剣に頑張ってる人もいると。しかし、それでも足りないというぐらいの気持ちでいた方がいいね。ほんとにどれだけやっても足りないぐらいだと。必ず今生で、わたしは完全なる覚醒、あるいは主の道具として菩薩として役に立てる存在にならなきゃならないんだと。それは一点の染みもあっちゃいけないんだと。それぐらいの心意気で頑張らないといけない。
しかし繰り返すけども、多くの場合、理論上そういうことはもう分かりに分かってるのに、分かりに分かりきってるはずなのに、まるで呪文を掛けられたかのように、まさに悪魔の呪文を掛けられたかのように、すぐに――まあ、こういうことよくありますよね。「先生!」って懺悔して、「ああ、なるほど。確かにそれは悪いことだったね」と。「じゃあまた頑張りましょう」と。でも次の日にまた同じ過ちを犯してると。「あれ、何やってるの?」と。「呪文を掛けられたの?」と(笑)。まさに悪魔にやられてるかのように。「あれはなんだったの?」と。これがわれわれの悪しき性質なんだね。これもだから、ここの一節はこれで終わってるけど、当然それをちゃんとまず認識しなきゃいけない。われわれの悪しき性質としてそういうところがあると。だから、ほんとに心を入れ替えて、なんていうか、ちょっと本気を出さないと。「そのうち本気出すよ」って思ってる人いるかもしれないけど、それはそう思ってるうちにもう一生終わっちゃうから。そろそろどこかで心入れ替えて本気出さないと、ちょっと大変なことになるよという一つの、自分に対する、自分を引き締めるための一節ですね。
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