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解説「菩薩の生き方」第十五回(5)

(M)分析によって煩悩を対治する方法についてちょっと質問があるんですけど、煩悩が出てるとき、いろんな対処法を使って、日々ちょっと効果を実感してるんですけど、メリット・デメリットの分析がなかなかできなくて。自分は以前から先生にちょっと話してるんですけど、動物的な無智の傾向が結構強いんですけど、やっぱり無智みたいなのが噴き出してると、分析によって煩悩を抑えるっていうことは難しい、みたいなことっていうのはやっぱりあり得るんですかね? まだまだ修行期間が短いので、教学のデータみたいなのが根付いてないっていうのもやっぱり原因かなと思うんですけど、どうなのかなと思いまして。

 それは、できないときがあるっていうこと? それとも全くできないっていうこと?

(M)できないときがあるっていう感じです。ごく稀にできるときもあるんですけど、なかなか使えない武器っていうか。

 分析が? それともそのメリットとデメリットの瞑想が?

(M)瞑想っていうのは……?

 つまりいろいろな分析全体がなかなかうまくいかないのか、分析の中でも今言ったメリットとデメリットを考えることがうまくいかないのか。

(M)メリット・デメリットについてが特にうまくいかない感じですね。

 うん。それはもちろん、しっかり学んでれば分かるように、まずそのやり方はもちろんいろいろあるよね。つまり分析のやり方もあるし、それからもう意志の力で乗り越える、抑え込むやり方もあるし、あるいはほんとにバクティ的に明け渡すっていうやり方も、いろいろあるわけだけど。だから別に、まず第一段階として、必ずしも、いつも、誰でも分析をやらなきゃいけないっていうことではない。ただまあ分析に関しては――分析っていうか教えでの破壊に関しては、もちろん確かにね、まず最初に教学が大事です。教学のデータを徹底的に入れると。うん。この教学のデータこそが――いつも言ってるように、結局心なんていうものはデータの集まりにすぎないので、量で決まる。まあ何回かこういう話してるけど、実際には量プラス、そうですね、それがいつ入れたデータなのかっていうこと、それから心を集中して入れたデータかどうかっていうこと。だから今皆さんが徹底的に教学を、大量に、かつ、そうですね、集中、あるいは喜びながら、あるいは興味を持ちながら――もちろんなかなか調子が悪くてそうできないときはただつらつら読むだけでもいいんだけども、できるならば喜びつつ、貪るように、まさに好きな漫画を見るように、そのようなかたちで教学をどんどん入れていくと。そうするならば、それが頭での理解がどうかは別にして、心にデータとして根付くので、それが自動的な武器になるっていうのはあるんだね。だからそれがまだ、当然量的に足りてないっていうのは一つはあるかもしれない。
 で、次に、もう一回言うけど、煩悩の破壊の仕方はいろいろあると。単純に言うと、今言ったように、分析でもできるかもしれないし、あるいは単純な信によって、「ああ、これはグルや聖者が駄目と言ってるから、わたしはその通りにするんだ」――これでボーンと行ければ分析も何もいらないわけだね。四の五の言うなと(笑)。ああだこうだ言ってる暇があったらただ守ればいいじゃんか――これでいけるなら一番早いですよね。あるいはお釈迦様が言うように、どうしようもないときは歯を食いしばれと。舌を上あごに当てて――ムドラーですよね。ムドラーして歯を食いしばれと。あるいはまさに行法によって、気を上げることによって煩悩から解放されることもできる。はい。で、そうじゃなくて、つまりM君みたいに分析が好きであると、分析をやりたいと。分析こそが、って思うならば、ですよ――「メリットとデメリットの分析、なかなか効かないんですよね」じゃなくて、効くようにしろっていうことです(笑)。つまりそれは足りないし、かつ、なんていうかな、そうだな、自分で無智のカルマって言ったから確かに無智のカルマはあるのかもしれないけど、でもそれよりも、まずはやる気っていうか、そうですね、総合的な問題だね。やっぱりデータの足りなさと、それからそれによってほんとに煩悩を分解するんだっていう本気度っていうかな、それも必要だし。それからね、そうだな、これはもちろん恩寵でもあるんだけどさ、経験っていうのも当然ありますよね。経験っていうのは、ちょうどそのような煩悩の苦悩の経験をさせられるとか、あるいは他者の中にそれを見るとか、あるいは過去にそういう経験があったとかね。それがあるとかないとかでまた変わってきたりもする。
 でも、どっちにしろこのシステムは、お釈迦様のシステムです。お釈迦様の言葉で、ちょっと難しい言葉になるけども、いわゆる味著・過患・出離っていう方法なんだね。味著・過患・出離。味著、つまりメリット。欲望のメリットを分析すると。で、過患、つまりデメリットを分析すると。で、出離っていうのは、その両方を分析すると、「これはデメリットだ」っていう感じで脱出できると。で、同時に、当然その真理、あるいは欲望ではない、つまり欲望を捨てる道とか、あるいは単純にいうと、例えば欲望に立脚して欲望のことを考えてる暇があったら至高者のことを考えましょうと。あるいは慈悲を考えましょうと。それとそれを例えば比較分析してもいいかもしれないね。つまり一つは、欲望のメリット・デメリットを考える。これはオッケーと。また別としては、欲望を追いかけたときのメリット・デメリットと、それから至高者を追いかけたときのメリット・デメリットと。こういうのを考えると。
 わたしもよく昔――わたしはね、あんまり皆さんにジュニャーナ的なものを勧めないんだけど、わたしは結構やりました。使える人には使えます。で、これがバシッといったときは、一瞬で消えます。「グワーッ!」「これはー!」って思ってたものが、つまりもうパズルが全部パチッとはまったときには一瞬で崩壊する。多分M君もそういうのにあこがれてるのかもしれないけど(笑)。それはまず、繰り返すけど、データが足りないっていうのもあるけども、具体的にいろんな現象に当てはめて、で、しっかりとそれを分析すると。そして、もう一回言うけども、単純にその煩悩自体の分析だけではなくて、逆にそれと対比される至高者なり、菩提心なり、修行なりの方のメリット、あるいはもちろんデメリットもあるかもしれないね。例えば慣れないと疲れるとか(笑)、いろいろあるよね(笑)。それは両方分析する。どっちがいいんだと。どっちが素晴らしいんだと。
 で、これは、そうでないときもよくやったらいいね。そうでないときっていうのは、煩悩に苦しんでないとき。余裕があるときとかね。あるいは逆に真理で頭がいっぱいのとき、このときもやる。このときにも煩悩のデメリットとかをよく考えると。で、それらをストックして置いといて。そのフィーリングっていうかな。で、ほんとにもう欲望で苦しくてしょうがないときとかに、それを取り出して――でさ、そのやり方としては、いつも言ってるけど、まさに自分の心っていうものを他人として置いてね、こいつを説得するような気持ちでやります。説得っていうか、子供に納得させるような感じ。納得させなきゃ駄目です。頭ごなしじゃ駄目です。頭ごなしでもいけるんだけど、ジュニャーナでやるときは納得させないと駄目です。
 だからそれは、「自分」って考えるとすごく甘えちゃうわけですよね。もう考えたけどできなかったんです――これ、甘えです(笑)。そうじゃなくて、「こいつ」。こいつ、違いますから。皆さんの心って自分じゃないからね。うん。情報の集まりでできた馬鹿みたいなロボットみたいなやつだから。このわたしの心っていうロボットを納得させる。うん。この心が、「なーんだ、じゃあ修行するしかないじゃん」ってなるように(笑)、徹底的にデータによって分析して納得させると。で、そういうのを好む人は、もちろんこの心ももともと理屈っぽかったりするから、逆に理屈で納得させられるかもしれない。で、それは心から納得させないと駄目なんだね。で、心から納得が成功した瞬間に、さっき言ったように、この心自体が「なーんだ」ってなるんだね。なーんだってなった瞬間に、全部がひっくり返る感じになる。
 でも、これはね、ほんとに、難しいっていうか、かなり高度な話です。で、そこまでいかなくても、日々徹底的に欲望のメリットとデメリットを分析すると。あるいは真理の実践のメリットとデメリットを分析する。で――そうだな、もう一つ言うとさ、このジュニャーナヨーガ的な思索っていうのは、なんて言ったらいいかな、別に科学的な思索じゃないんだよ。勘違いしてる人いるかもしれないけど、科学的じゃないって言ってるのは、未知のものを「これはなんなんだろう?」っていうんじゃないんですよ。はっきり言って、最初から答えは決まってるんです。談合じゃないけどさ(笑)、なんて言うの、もう決まっちゃってるんです。最終的に――分かるよね。最終的に、「エゴ駄目じゃん」と。ね(笑)。煩悩駄目じゃんと。で、真理しかないじゃんと。これ、決まってるんです。で、そこにいかに導いていくかの分析なんです。だから、まさに子供を納得させるような分析なんだね。
 はい。あとはもう努力してやり続けるしかないね。いいですか(笑)?

(M)やっぱり分析が好きではなくて……やっぱりバクティとかの方に、やっぱり無智になりきって振り切った方が早いし確実っていうか、そういうのはやはりあるんですかね?……

 それはそうだね。ただね、分析はね、武器として使えるので、武器としては持ってかまわない。ただ自分の修行の中心軸をどこに置くかだね。まあM君はこの間合宿でバクティに目覚めて、数日でまた戻っちゃったみたいだけど(笑)。でもそういう目覚める素養があるわけだから、それだったらやっぱりバクティ一本で行った方が早い。つまり、バクティっていうかな、まさにバクティ、あるいはグルバクティ的な、つまり、投げ出せばいいじゃんと。うん。おまかせすればいいじゃんと。ここに自分を作ることに全力を注ぐっていうよりは、なんていうかな、とにかく飛び降りてみると。うん。とにかく、まさに人生を賭けちゃうと。なんかもう軽く言ってるけどね。軽く言ってるけど、賭けちゃうと(笑)。投げ出しちゃうと。この発想ね。
 しかし、そうはいっても――つまりそのような心構えを持って、そのような覚悟を持って、もうわたしはすべて捨てましたと。もうわたし、エゴありませんと。わたしはグルと至高者に心を合わせるだけです――あるいは、さっき言ったような、四無量心だけで生きますと。自分の考えすべて捨てましたと。ただ教えに百パーセント従って生きるのみです――このような覚悟ができたとしても、実際にはそうなってないよね。覚悟はあるけども、実際には心は変わってなかったりする。でもこの覚悟を持って突っ込むことによって、なんていうか、それまでのその完成に至るまでのさまざまな、本当だったら必要な回り道が必要なくなっちゃうんですね。スムーズにただバーッてそこに魂が向かうことになる。
 でも実際みんな向かわないよね。なんで向かわないかっていうと、それはさっきから言ってる菩提心の話と同じで、実際には自分自身でストップをかけてる。うん。ちゃんと使ってないんだね。みんなこんな素晴らしい――さっきから菩提心は最高だ最高だって言ってるけど、より最高な道、それは「明け渡し」です。これ以上の道はない。これに出合えた皆さんは素晴らしい。しかしなかなかそれを使わないと。
 でも実際にはそれはしょうがないのかもしれない。つまり、覚悟が持てるっていうことは、まずは皆さんのカルマがいい、あるいは過去世からの素晴らしいそういう縁がある。これは素晴らしいね。でもそうじゃない、エゴの部分にまだ寄りかかってる部分もだいぶあると。自分の頭ではすべて捨ててるつもりなんだけど、でも全然寄りかかってる部分がかなりあると。この場合は当然、いろんなほかの技法も使って、それを細かく打ち砕いていくしかないね。
 だから、いつも言ってるように、今生、カリユガにおいては全部必要だと。本来はバクティ一本でいけるんだけど、実際にはジュニャーナ、つまり教えによる分析や、あるいは行法による気の上昇や、あるいはカルマヨーガ的な考え方、あるいはそうだな、その他の密教的技法や仏教的技法、いろいろもう総動員して、つまり本来だったら――本来だったらっていうか、その中心軸はバクティでガーンっていくのが早いんだけども、それを阻害してるもろもろの細かいいろんなものを破っていくのは、武器があったらいい。だからこのようなジュニャーナヨーガも、さっき言ったくらいまでの、それだけで心の問題をすべて打ち砕くまではいかなくても、日々のいろんな、ちょっと自分がおかしくなったときとか、いろんな悩みが出たときとかに教えで分析してそれをスパッと抜けられるぐらいのものは持ってれば、それはそれで素晴らしい。
 だからそれは、繰り返すけど、まずは教学の徹底的な修習と。そして普段から教えに基づいて考える訓練をすると。これはこれでいいと思うね。しかし、繰り返すけど、中心的には、もういい意味での無智になりきって、まさにラトゥみたいに、ただただ言われたことに自分を合わせていくと。ただただ百パーセント、言われたこと、修行にしろ奉仕にしろ、そこにのみ、自分の考えを入れずに自分を合わせていくと。これができたらまあ最高ですね。いいですか?

(M)ありがとうございました。

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