解説「菩薩の生き方」第十二回(7)
ちょっと話がずれるかもしれないけど、わたしね、よく経行してるときとかリーラーディヤーナとかやるわけだけど。リーラーディヤーナって知ってる? リーラーディヤーナって別に難しいことじゃなくて、いろんな聖者とか、あるいはプラーナ、いわゆるアヴァターラとかの物語を心の中で何度も展開させる。で、この間ちょっとお釈迦様の物語を頭の中でまた反芻してて。お釈迦様の弟子で、女性の一番弟子でケーマーっていう人がいるんですね。男性の一番弟子でサーリプッタ――智慧第一っていうんですけど、女性の智慧第一、ケーマーっていう人がいて。で、このケーマーっていう人は実は、マガダ国のビンビサーラ王の奥さんだったんだね。奥さんで、絶世の美女と言われていた。絶世の美女で、ビンビサーラももちろんケーマーが大好きだった。で、大好きだったから、ビンビサーラ王はお釈迦様に帰依してたから、お釈迦様に会わせたくてしょうがなかったんだね。おまえもぜひお釈迦様のところに行けと。この気持ち分かるよね。愛する妻だから、ぜひわが親愛なるお釈迦様に会わせたいと。この自分の奥さんもぜひ信者になってほしいという気持ちで、会わせたくてしょうがなかった。でもケーマーは絶対会わなかった。もう拒否。なぜかっていうと、彼女は自分の美しさに執着してたから。で、お釈迦様と会ったことはなかったけども、もちろん噂は聞いていた。で、なんとなく言われることは分かってた(笑)。「美しさは無常である」と言われることは分かってたから、自分はその美しさを捨てたくないから、執着しまくってるから、お釈迦様は無常の教えを説くから行きたくないと、もう会わなかったんだね。
で、そこで王様が一計を案じて――ちょうどお釈迦様はそのころ美しい園林に、美しい花の園に休息にやっていらしたと。で、そのときを見計らって、ちょっと計画でね、みんなにその美しい園の素晴らしい噂話をさせたっていうんだね。ケーマーの前で。「あの園は本当に素晴らしい」と。「あんな所は見たことがない。あそこに行って遊べたらどんなに楽しいだろうか」とかみんなが言ってると(笑)。そこでケーマーはだまされちゃって、ぜひ行ってみたいってなって行ったんだね。行って入ってみたら、お釈迦様がいたと(笑)。
で、そこでもうケーマーは観念して、そこに座ったわけだね。そしたら、お釈迦様のことをふと見たら、お釈迦様の横に、もう自分よりも、自分なんかもう比較にならないぐらいの美女が座ってたんです。もう天界の女神かっていうぐらいの美女が座ってて。で、一瞬ケーマーは、「このお釈迦様は出家とか言いながら、こんな美女といるとは」と思ったんだけど、でももうそんなこともすっ飛んでしまうぐらいに、もう見とれるぐらいに、もうこの世のものじゃないような美女だったと。ハーッと見とれてたら、その美女が見る見る間にグワーッて醜くなっていって、どんどんしわが出てきて、で、体が曲がっていって、白髪になってハゲになって、最後は倒れて、体中の穴という穴から汚い汁を出しながらウンウンうなった状態になったと。つまりそれは現実じゃなくて、お釈迦様が現わした幻だったんだね。で、それを見た瞬間ケーマーはショックによってハッとして、で、涙を流し、「お釈迦様、分かりました」と。「出家します」と(笑)。
(一同笑)
「ほんとにわたしの無智を開いてくださってありがとうございます」と。で、お城に帰ってケーマーは王様に言うんだね。「王様、お釈迦様と会ってまいりました」と。「出家させてください」と(笑)。
で、普通だったらもう絶世の美女ですから、愛着してる奥さんだから、止めるかもしれないんだけど、ビンビサーラ王は逆に喜んでね、「え、そこまでいったか」と(笑)。
(一同笑)
ちょっと目覚めさせようと思って会わせたら、「出家します」(笑)――もう、それを心から喜んだんだね。「おお、じゃあ行ってこい」と。「それがわたしにとっても最高の喜びだ」と。
で、この話は面白い話なんだけど、ここでわたしが面白いと思ったのはさ、つまりお釈迦様から一つヒントを与えられてね、強烈なヒントだけども、その絶世の美女が醜くなっていって最後はウンウン唸って体中からもう汚い汁を垂れ流すみたいな、その幻を見せられた――言ってみればそれだけですべての迷妄が消え、ハッとして、「もうわたしにはこの道しかない」と、「お釈迦様、お願いします」ってなれるってことは、しかもそのあとお釈迦様の女性の第一の弟子にまでなったっていうことは、当然ですよ、もともと決められていた、もともと偉大な素養を持った、そうなるべくして生まれてきた魂だっていうことは言えるよね。で、面白いと思ったのは、そこまでの彼女ですらですよ、そこまでの彼女ですら――多分その前、つまりお釈迦様と出会う前も、そのことは薄々分かってる。薄々、「わたしは今生目覚めのために、覚醒してみんなを救済するために生まれきた」って分かってるんだけども、抵抗してるんだよね、最初ね。美しさに執着して、できるだけ――ケーマーの気持ちを代弁するならね。まだ無智なケーマーとしては、「お釈迦様と会っちゃったらこれ終わっちゃうから」(笑)。お釈迦様と会っちゃったらもう目覚めさせられちゃって、この無智な美しさの喜びも終わっちゃうから、多分抵抗してたんでしょうね。でも、出会ったからにはもうそれしかないってなる。
皆さんももし、ほんとにまだ目覚めてない状況だったならばいろんな抵抗があっていいのかもしれないけども、やっぱり、ほんとにですよ、皆さんが、自分はダルマに巡り合ったんだと、あるいは自分はほんとに、生きていてすべてを賭けるに値するものに巡り合ったんだと、あるいは正しい道に巡り合ったんだっていう思いがあるならば、やっぱりすべてを捨てるべきだよね。すべてを捨てるって、別に物理的に捨てろって言ってるわけじゃないけども、エゴを捨てると。あるいはどうでもいいようなあがきはやめると。
検討の暇も本当はないよ。ないっていうか、もったいないよね。ほんとに分かんないならいいよ。無智で、「いや、わたし、なんか仏教とかヨーガに巡り合ったけど、まだ分かんない」――それはもうしょうがない。でも実は分かってて、でも苦しいから検討してる――これは駄目です。だっていつ終わるか分かんないよ、その縁が。検討してる間に死んじゃうかもしれないよ。それは非常にもったないよね。逆ですからね、考え方として。もう一瞬も無駄にできないと。あ、出合った――あ、もう一瞬も無駄にできないと。この感覚ね。
で、これはほんとにリアルだから。ちょっとまとめとして言うよ。まとめとして言うけども、リアルっていうのは、皆さんが多くの悪業に満ちてることはリアルだし、そしてこの真理のダルマによって、どんな悪業があっても皆さんの努力次第では救われるっていうのもリアルだし、しかしそのリミット、タイムリミットはいつ来るか分からない。ものすごく短く終わるかもしれない。これもリアルだし。この辺を考えたら、ほんとに死にもの狂いでね、かたちある修行だけじゃなくてね、精神的なものも含め、いかに自分の心を完璧に浄化するか、それに全精力が注がれて当たり前っていう話なんだね。
はい、仏教系はこういう感じでいつも厳しい話になるけどね。でもこれは非常に大事なことなので、ひたすら――特に自分は傲慢だって思う人は、この『入菩提行論』の第二章ね、「罪悪の懺悔」のところを毎日読むぐらいでいいかもしれないね。それによってその自分の傲慢さにストップをかけると同時に、切羽詰まった思いを忘れないようにすると。
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