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解説「菩薩の生き方」第十二回(6)

 はい。ではちょっと、解説のところを見てみると、

「死を迎え、そして生前に積んだ悪業によって地獄に落ちようとするとき、誰もその人を救うことはできません。誰も身代わりになってくれる人はいません。それは不可能なのです。唯一つ、自分を救ってくれるのが、福善、つまり自分の功徳、良いカルマ、善業です。
 にもかかわらず、前回も書いたように、懺悔によってリアルに検討するなら、我々はほとんどの人が、多くの悪業を積み、善業はほとんど積んでこなかったのです。唯一我々を死と地獄の苦しみから救いうるものを、我々は積み上げてこなかったのです。死と共に消え去るお金や名誉やプライドや愛情などはたくさん積み上げてきたのに。

 そのようなことをリアルに考えれば考えるほど、我々はその恐怖におののき、そして偉大なブッダや菩薩方にすがらずにはいられません。そしてもちろん、我々自身の努力によって、善業増大、悪業浄化、そして死を超えた解脱の境地を得ることのみに、全力を尽くさずにはいられなくなるのです。」

 はい、これはまあ本文にも書いてあるように、「ヤマ(閻魔)の使者につかまれたときに、どこに親戚が求められ、友人が求められるか。ただ福善のみが、私を救いうる。しかも私は、それを修めなかった」っていうやつね。われわれはこの、親戚にしろ友人にしろ、あるいはその他、繰り返すけど、無常なものにわれわれはいつもしがみついてきた。つまり人からどう思われるかとかね、プライドとか名誉とかいろんなものにしがみついてるけど、全部関係ありません。全部死のときに皆さんを救いません。もちろんお金によっても救われません。お金がいくらあろうが、それは閻魔様への賄賂にはならない。
 閻魔様への賄賂っていうか、まあ、これも前にも言ったけど、『西遊記』とかでよくある話で、皆さんの功徳が――これは象徴的にね、皆さんがどれだけ功徳を積んだか、それが天の倉庫にお金として貯まってると(笑)。それのみが皆さんを救う、まあ賄賂っていうかな、皆さんを救う賃金になると(笑)。結局功徳なんだね。
 はい。もちろん、さっきも言ったように、ベースは功徳と悪業。これによってわれわれは来世が決まってしまう。もちろんそれを超えたものとして、皆さんを救ってくれる至高者や仏陀、グルの力っていうのがある。しかしこの祝福っていうのは、繰り返すけど、皆さんに注いでるんだけども、皆さんがそれをつかもうとする努力をしてなかったら当然つかめないんだね。うん。まあ、だからつかまないでワーッて落ちてって、「なんで救ってくれないですか?」――実は救いの紐は降りている。ロープは降りてるんだけど、みんながつかもうとしない。なぜかというと、生きてる間に自分を捧げてつかもうとしてなかったから、死後の世界でもつかめないんだね。これは当然自業自得である。だから当然、ここに書いてある功徳とか悪業だけじゃなくて、帰依っていう意味も含めてね、われわれはそのような、本当の意味でわれわれを救ってくれる、あるいはまあ、それよりもそれ以前に積んだ悪業、もうどうしようもないような、もう普通だったらどうにもならないようなものを大逆転させてくれる、それが、繰り返すけど日々の悪業浄化、そして功徳の増大、そして帰依、あるいは心の浄化。
 だから、その意味でいったらさ、もうほんとに日々の忍辱なんて当たり前のことなんだね。当たり前っていうよりも、ありがたいことです、ほんとに。繰り返すけど、例えば苦しいことがあって文句を言ってる人っていうのはほんとに無智であって、傲慢であって、懺悔ができてなくて、教学もできていないと。だって、このような修行をしてて起きる浄化としての苦しみっていうのはさ、最高ですよ(笑)。祝福によってほんとに何カルパ分ものカルマを落としてもらえるわけだから。もう願ったり叶ったり(笑)。「やった!」と。「どうすればいいんだ!」って思ってたら苦しみがやってきて、「ああ……」――もう安らぎです、これは(笑)。修行者としてはね。「このカルマどうしたらいいんだ!」って思ってたら、ひどいやつらがいっぱいやって来ていっぱいいじめてくれると。もう安らぎ(笑)。「わたしにもこんな恩恵が来るとは!」(笑)。「神はわたしを見捨てていなかった」と。「こんなかたちでカルマを落としてくれるなんて、なんてありがたいんだ!」と。
 でもみんなは無智だから、もう文句ばっかり言って(笑)。あの人が、あの人が、この人が――そうすると当然、カルマの浄化は進まないと。しかも新たな悪業積んじゃうと。うん。これはもう神々から見たら、なんて馬鹿なやつなんだと。なんて目の前しか見えない馬鹿なやつなんだと。
 さっきも「一期一会」とか「瞬間瞬間過ぎ去る」って言ったけどさ、一生っていう目で見ても短いですからね。しょせんは、ね、皆さんこれから長生きするとしても、あと五十年ぐらいでしょう。仮に長生きしたとしてもね。もっと早く死ぬ人もいっぱいいるだろうと。神々の時間のペースから見たらね、まあ皆さんもいろいろそういうの見てるだろうけど、『クリシュナ物語』のブラフマー神が、クリシュナの友達を隠しちゃって。で、ちょっと休憩したあとに見に行こうと思ったらもう一年過ぎちゃったっていう話があって(笑)。つまりタイムスパンが全然違うんだね。神々ってものすごい長い時を歓喜のもとに生きてるから、彼らから見たら人間の一生なんていうのはもうほんとにまばたきするような瞬間に過ぎ去ると。でもわれわれは心が狭いから、この短い一生を長いものだと考えてしまう。でも繰り返すけども――特に長く生きてる人は分かるでしょう。長く生きてる人は、振り返ったら瞬間でしょ? あ、ほんとにもうこの人生終わるなと。
 わたしもよく思うけどね。わたし小さいころ、何回か言ってるけど、小学校のころとかさ、なんか大人になるのがちょっと、楽しみと、それから不安とがあった覚えがあった。「大人になったらどうなるのかな?」――つまりなんか子供時代のこの気持ち(笑)。この子供の気持ちが――でも大人って違うふうに見える。どっかで変わるんだろうなって思ってた。なんかガチャッて変わるような気がしたんだね。どっかでガチャッて大人モードになって(笑)、変わるんだろうなって思ってたんだけど、振り返ると全然変わってなくて(笑)。振り返ると、「あれ? 小学校のまま来たな」みたいな感じがあるんだけど(笑)。でもそれだけ、なんていうか、瞬間であると。
 小学校のとき、ほんとにわたし学校嫌いだったからさ、小学校のころ、例えば四年生ぐらいのときに、まあ義務教育、そして高校も行くとしたらさ、「え、あと八年ぐらい? なんと地獄のようだ」(笑)。「なんと長い人生だ」と思ってたけど、でも実際振り返ると一瞬ですよね。え、もう終わってしまうのかと。もうこんなに経ったのかと。で、それはもちろん神々から見たらほんとに一瞬だし――だから、いつも同じこと言ってるけどさ、皆さんが真理に巡り合えなかったらいいんですけども、巡り合ったんだから、もう全力でカルマの浄化と真理の獲得と、それからまあ正しいことっていうか理想の実現のみに全部注げばいいじゃないかと。それ以外のことをしてる暇あるのかと。それくらいの、強いっていうか、当たり前のことなんですけどね、当たり前の気持ちを持たなきゃいけない。

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