解説「菩薩の生き方」第十九回(4)

命をかけた戦争においては、私は矢や槍が体に刺さったとしても、煩悩を打ち滅ぼすまでは、決して逃げ戻ってこない!――このような強い決意を持った私に、たとえ百の悩みがあったとしても、どうして絶望と落胆がありうるか――これはどういうことかといいますと、もうこの人は、「逃げる」「戦いをやめる」という選択肢を捨てているのです。この場合においては、「さて、どうやって勝とうか」という悩みはたくさんあるでしょうが、絶望とか、落胆などはありえないのです。不退転、つまり負けても負けても進み続け、必ず最後は勝つ!――という決意があるわけですから。
はい。これもこのままですが、「命をかけた戦争においては、私は矢や槍が体に刺さったとしても、煩悩を打ち滅ぼすまでは、決して逃げ戻ってこない!――このような強い決意を持った私に、たとえ百の悩みがあったとしても、どうして絶望と落胆がありうるか」と。
はい、つまり、まあ、言い方を換えれば、そのような決意を持たなきゃいけないと。別の言い方をすると、当たり前ですけど、それだけ大変だっていうことです。ね。
で、ちょっと付け加えて言うよ。付け加えて言うと、当然、いつも言うように、小乗的な、つまりただ自分の解脱だけを願う修行でも大変です。菩薩道やバクタの道はもっと大変です。なぜかというと、ちょっとこれもいつも言ってることだけどね、要点だけを言うと、なんていうかな、小乗の道っていうのは、なんていうかな、最低限で行けるんですね。最低限の煩悩を打ち滅ぼして、うまく行くこともできると。つまり完全なる煩悩の破壊はする必要はないと。つまりルートが一本できればいいだけだから。いってみれば、ほかの煩悩は止めとけばいい、みたいな感じがあると。で、それでポーンと行けばいいから。でもそれでも大変ですよ。それでもなかなか、今現われてる煩悩と戦い、打ち滅ぼすのは大変なんだけど。
それに対して菩薩道は、完全なる煩悩の破壊を目指すと。で、それどころか、別の観点からいうと、完全なる四無量心、これを目指すと。完全なる四無量心を目指すっていうことは、もちろんわれわれの中には小さな愛とか小さな慈悲っていうのはあるわけだけど、でもそれがどんな状況においても、あるいはどんな苦難の中でも壊れない、広くて、そして金剛、ヴァジュラのように堅固なる慈悲の心、愛の心、これを培わなきゃいけない。
これはだから、大変な修行になるんですね。で、それを邪魔する自分のエゴ、あるいは自分の間違った観念等と、徹底的に戦わなきゃいけない。だから菩薩道は、普通の修行ももちろん大変なわけだけど、菩薩道、あるいはもちろんバクタの道もそうだね。バクティの完全に明け渡す道。それを阻害するものとの戦い。これはものすごい戦いになると。
で、それは、まあ、逆にいうと、何度も何度も倒れて当たり前と。つまり、矢が飛んできて刺さって当たり前。そんな、シュッシュッって矢をかわして(笑)、無傷でかっこ良く行こうなんて、そんなことあり得ない(笑)。グサッ――片目つぶれましたと。ああ、普通ですねと。グサグサグサグサグサッ――ビーシュマみたいに体中に矢がバババババッ――当たり前ですと。ね(笑)。そこでもう倒れて血だらけになって、ああ、普通ですねと。そんなことはもう最初から織り込み済みですと。はい、立ち上がりなさいと。で、何度倒れても立ち上がると。これが当たり前なんだと。
で、それを――つまり重要なのはこの――これもよく言うけどね、決意、あるいは心構えといってもいい。これが一番重要であると。つまり、わたしは完全にこの道を達成するまでは踵を返さないと。後ろを振り向かないと。
もちろん、繰り返すけど、やられることは何度もあるだろうね。つまり具体的にいうと、ガーンってカルマ落としと遭い、あるいはガーンと自分のけがれとぶつかり、一時的にすごい落ち込むとか、あるいは一時的にもう苦悩の中でのたうちまわるっていうのはあるかもしれない。しかし何度も立ち上がると。
こういう話何度もしてるけど、わたしの通ってた学校の標語でも「不撓不屈」っていうのがあったんだけど、不撓不屈の精神と。何度倒れても立ち上がり、決して屈しないと。うん。繰り返すけど、やられることはやられると。しかしギブアップはしないと。この発想ね。この覚悟ができれば――っていうかこの覚悟を持たなきゃいけない。で、その覚悟をするならば、百の悩みはあるだろうが、絶望と落胆はあり得ないと。
で、つまり、ぶっちゃけて言うと、われわれは、いつも言うように、最後には必ず勝ちます。あきらめなければ。だから絶望と落胆はないんだね。しかし悩みはある。つまり、「先生、最後に勝つと言ってたけど、全然この扉が開かない」と(笑)。その悩みがあるよね(笑)。一体どうしたらいいんだと。もうすべての武器をぶつけたが、全然びくともしないと。
ここで、繰り返すけど、信がなかったり、あるいは覚悟が弱かったりすると、ここでもうあきらめが生じる。もう絶望ね。もう駄目だと。あるいは阿修羅的な人もそうなるね。阿修羅的な人はもうすぐにあきらめて、「もうわたしの修行は駄目だ」ってなってしまう。そうじゃなくて、もう覚悟決めてる人にとっては、あきらめはない。だから絶望も落胆もないと。しかし悩みはある。うん。完全にわたしは完成するまで、全力で、けがれと、魔と戦うと決めたけども、それはいいんだけど、どうやったらいいか、なかなか突破口がつかめないと。こういう悩みはあるかもしれないね。これはこれで、もちろんその悩みっていうかな、悩みつついろいろトライすること自体がその人の修行になってるわけだけど。で、それはあるかもしれないけども、覚悟を決めた人にとっては、絶望とか落胆っていうのはあり得ないんだっていう話だね。
落胆どころか――繰り返すけど、なんていうかな、負けながらも喜びに包まれてる。なぜかというと、さっきから言ってるように、そのような戦いのチャンスを与えられてることが稀有なる喜びですから。負けるのは当たり前であると。だってそれだけ強大な敵と戦ってるし、そしてそれだけ大いなる道を歩んでるんだと。逆にスッスッて行ける道だったら、そんな価値はない。遥かなる過去から多くの聖者方が歩んできた、みんなのたうちまわりながら歩んできた、同じ道をわたしは歩んでるんだと。お釈迦様だって、普通によく言われるのは――お釈迦様は、仏教でいうところの五神通、つまり神足、天耳通、他心通、宿明通、天眼――っていう、つまり悟りそのものではないが、偉大なる聖者が持つ五つの神通力を身につけて、で、あと一つ、悟りそのものともいえる漏尽ね。あとはこれだけだってなったときから――つまり五つまで身につけてから、最後の究極の悟りに至るまで、四つのアサンキャ――アサンキャって、まあカルパよりも大きな時間単位だけど――と十万カルパかかったと。もうわけが分からない(笑)。どれだけ長いのかわけが分からないくらいの――つまりこれ、最初からじゃないよ。修行始めてからじゃなくて、つまり、いってみればこの六つを完成すれば仏陀っていう条件があるとして、その六分の五まで終わったと、あと六分の一終わるまでに、それだけの、ちょっと数字では表わせないぐらいの時間がかかりました。その間、のたうちまわりながら、多くの――だってお釈迦様の過去世物語見たら、ある生では両手両足、鼻と耳とを切り落とされて、そこで忍辱の修行に励んだ生もあったと。つまり別に、お釈迦様は天才だからスッスッスッとなんの苦しみもなくいったわけじゃない。まあもちろんわれわれに道を示すためっていうのもあるだろうけど、多くの生で多くの苦悩を乗り越えて仏陀となられましたと。で、その同じ道をわれわれも歩ませていただいてるわけだね。
例えばこれも聞いたことあると思うけど、観音様って皆さん当然知ってるでしょうけど、あの観音様ってアヴァローキテーシュワラ――アヴァローキタ・イーシュワラ、つまりシヴァの一つの相ともいえるわけだけど、あの観音様っていうのは、つまり観音菩薩っていう名前を使ってるけど、実際には如来とほとんど変わりないと言われてる。しかし菩薩としてわれわれにいろんな見本を見せてくれてるんだっていわれてるけども。その観音様の、実は観音様になる前のお姿、それがサダープラルディタっていうんだね。常泣菩薩っていうやつですね。このサダープラルディタのときは、観音様のグルであるダルモードガタっていう菩薩に供養するために――この話は何度も聞いたことあると思うけど、「グルへの供物を持って行かなきゃ失礼だ!」って思ったわけだけど、でもお金も何も持っていないと。そこで「自分の体を皆さん買いませんか?」――自分の体を売り出したわけだね(笑)。そしたらそこに、それを試そうと思った神が、インドラが現われて、なんか変な儀式を行なう修行者のふりして現われて、「いや、わたしは人間の骨と人間の肉が儀式に必要なんだ」と。「だからおまえの骨と肉をくれ」って言ったんだね。そしたらサダープラルディタは全く躊躇することなく、自分の腕を切り出したり、あるいは自分の足の骨とか、あばらとかを切り出したと。で、そこら中にバーッて血しぶきが舞って、で、肉は切れるんだけど骨がなかなか硬くて切れない、みたいな。まあ最後はもちろん神が正体を現わして、おお、あなたは素晴らしい、っていう感じでまあ傷も治してくれるんだけど。そういう経験をさせられてるんだね。
『入菩提行論』でも面白い話があるよね。つまりこの菩薩の道、あるいは仏陀への道を歩むには、自分の手や足等を犠牲にしなきゃいけないっていうふうに恐怖が生じるかもしれないが、それは心配しなくていいと。つまり、最初は偉大なる仏陀方はね、まず野菜から布施させるんだと。ね。野菜から布施させて、で、徐々に徐々に布施の心を培わせていって、最後には手や足でも全く布施できるような状況になるんだと。でも逆にいうと、じゃあ手や足はやっぱり布施しなきゃいけないのかと(笑)――なるよね。まあ別に絶対的に手や足を布施するっていう状況が必ず生じるっていうわけじゃないけど、つまり言いたいのは、それだけ多くの苦悩を乗り越えなきゃいけないんだと。多くの課題を突き付けられ、それはある場合においては手や足以上に、自分にとっては困難と思えるときがくるかもしれない。
まあ、これもチョギャム・トゥルンパとかも言ってるけども。チョギャム・トゥルンパに言わせれば、実際のところは、例えばグルが現われてね、グルに対して自分の手や足や鼻や耳を捧げるっていうのは、実はそれはそんなに大した問題じゃない。自分のエゴ、観念、これを捧げることの方が実は大変な問題だっていうかね。まあ、それはそうだね。ちょっと性格的に思いきりのある人がいたら、手や足ぐらいは捧げられるかもしれないよね。「よし!」って感じで、「どうですか、グルよ!」って感じでバシッてやって。ヤクザだって指捧げるわけだから(笑)。ヤクザ的な心があったら、「グルのためなら!」っていってバシッて腕ぐらい捧げられるかもしれない。しかしエゴ、あるいは心そのものを完全に明け渡すっていうのは非常に難しいと。でもこのバクタや菩薩道を行くには、最終的にはそこまで当然行かなきゃいけない。
で、そのための、その前段階の、あるいはそれを達成するための試練、あるいはそれを邪魔してる煩悩との戦いね、これは無数に経験しなきゃいけない。
はい。じゃあ、ちょっと話を戻すけど――よって、もちろん普通の修行もそうですけども、菩薩道、あるいはバクタの道っていうのは、当然それは皆さんにとって、そのような大いなる苦悩がいつやってくるかは人それぞれでしょうけども、そういうものと徹底的に戦わなきゃいけないと。はい。それを想定しなきゃいけないんだね、最初からね。もともとそういうもんなんだと。
よって――繰り返すけど、ここにおいては、それをどうやって乗り越えようかっていう悩みはあるけども、もう駄目だとか、そういう絶望とか落胆は一切ないんだと。逆に言うと、そういう覚悟、完全に退路を断った覚悟ね、それを持たなきゃいけないんだっていうことですね。つまり多くの人の場合は、実際には退路を断っていると言いながら退路を持っています。つまり逃げ道を実は確保してるんだね。心の中ではね。それを完全に断たなきゃいけない。「もうわたしにはこれしかなくなりました!」という状況に完全にしなきゃいけない。われわれは潜在意識的に、実は退路をいっぱい持っています。あらゆる意味でこの退路を断たなきゃいけない。
はい。で、繰り返すけど、実際には、もしわれわれが逃げさえしなければ、最終的には必ず勝ちます。それを信じられるかですね。
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