解説「菩薩の生き方」第十三回(5)
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「不浄行(悪行)によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れうるかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことだ。」・・・これもいいところですね。前にも書きましたが、このような表現は、卑屈さとは違います。逆にこれを読んで卑屈さやマイナスイメージを感じる人は、プライドが高い人かも知れません。
繰り返しになりますが、我々は仏教やヨーガでいうところの善悪のカルマの定義でいえば、数限りない悪業を積んできたのです。それらのダルマに信があるとしたら、どうしてのほほんとしていられましょうか。信がないから、あるいは信はあってもリアルに現実的に思索をしていないから、余裕を持っていられるのでしょう。
だから本当に、「早くこの悪業をすべて浄化したい! どうすればいいんだ!」と、いてもたってもいられなくなるほど、自分のカルマと死のリアリティを常に考えなくてはならないのです。
ブッダ、菩薩、そして現実の自分の師などに対して、本当に心を開いて、悪業を懺悔すること。そして二度と悪業を犯さないという誓い。これによってこの章は結ばれています。この二つの思いが本当に心から強くわいて来るように、この章を何度も何度も、心をこめて読むと良いと思います。
はい。これは読んだとおりですね。さっき言ったことにもつながりますけども、しっかりと懺悔を日々行ない、そして法を学び、そしてその法に対して信があるならば、まさにこういう感じになっていくんだね。つまり――皆さんはさ、繰り返すけど、幸せな人たちです。なぜかというと、まず法に巡り合ってる。これはわたしもそうだったし、いろんな話も聞いたことあるけども、例えばなんとなく小さいころから、真理とか、なんかそういうのを求める気持ちがあると。しかし何が真理なのか分からないと。で、それぞれの良心、あるいは社会的な道徳観念、あるいはそれぞれが出合ったいろんなモラル、あるいはある人の場合は宗教だったり、そういうものを土台にして正しい生き方をしたいとか、そうなっていくわけだけど。皆さんは少なくともこの仏教、あるいはヨーガ等の過去の古の覚醒者、仏陀たちから連なるこの最高の教えに巡り合ってると。そして、まだ悟ってはいないかもしれないが、何が正しく何が正しくないのか、あるいは何が悪業となり何が善業となるのか、何が苦しみを生み何が幸せを生むのかっていうのを学べる状況にあると。これは大変素晴らしい。そしてそれをしっかりと学んで、それに信を持つ。さっきの、仏教徒なのに輪廻を信じないとかいう人じゃなくて、少なくとも、まあ、もちろん皆さんが修行して自分で経験できれば最高ですけども、そこまでいってないとしたら、グルや、過去の聖者、仏陀方が説いた教えを信じると。
で、信じて、それをしっかりとリアリティを持って考えたとしたら、とんでもないことに気付きますよね。「おれはまずい」と(笑)。絶対こうなります。おれはまずいと。これはもちろん皆さん、過去世は分からないかもしれないが、過去を振り返っただけでもまずい。これはもちろん修行に入る前も振り返ったらですよ。修行に入る前も振り返ったら相当まずいでしょ(笑)。ね。動物、地獄、餓鬼のカルマ、相当積んできたと。
多くの殺生、暴力、あるいは心における怒りや憎しみ、批判、相手への害心。いっぱいやってきたと。地獄確定じゃんと(笑)。
あるいはなんでも独り占めしたいとか、あるいは子供のころは盗みとかもいっぱいやった人もいるかもしれない。あるいは、ねえ、精神的な貪り、こんなものも言っちゃったらみんなそうですよね。貪ると。これは餓鬼も確定であると。あと、人によっては、間違った宗教っていうかな、霊的な世俗的な宗教にはまってしまったと。それも餓鬼のカルマだね。
それから動物。つまり習性による本能的な欲望に翻弄されてきたと。あるいは逃げの心でなんでも逃げてきたと。あるいは怠惰によってタマスに浸ってきたと。
あっけらかんと、悪い意味で楽天的に考えれば、別におれそんな悪いことやってないけどな、ってなるけども、ほんとに詳細に謙虚に自分の過去を振り返れば、修行に入る前も、入ってからも考えればね、もうとんでもない悪業を積んできたと。
これは、もう一回言うとね、わたしはまだカルマの法則の真実を知らないけど、しかし過去の仏陀や、あるいはグルが言ってることを聞いたら、普通に数学的に当てはめたら、ちょっと笑えないと、これは(笑)。ね。これはちょっとまずいですよと。ね。よって、そこからいかに逃れるか。
ただもちろんここは一般的なというか、すべての人にも通じる一つの懺悔の発想として書いてあるわけだけど、皆さんの場合は、もっと志がある場合、つまり菩薩道や、あるいはバクタとしての志がある場合は、よりその問題は大きくなってくるね。つまり自分だけの話じゃないから。
ここに書いてあるのは、まずベースとして、このままだとわたしの将来の苦悩というのはとんでもないと。ね。地獄に落ちるかもしれないし、落ちないまでも相当の苦悩を将来受けなきゃいけないと。これは切実な問題としてある。でも、それプラス皆さんの場合、わたしは菩薩になりたいのに、あるいはバクタとして神の道具になりたいのに、こんなんでなれるわけがないと。こんな膨大な重いカルマがあったらしょうがないと。いかにこれを早く滅せるんだろうかと。早く――だってリアルに考えたら、「さあ、菩薩だ!」とか言いながら、人に怒りが出ると。なんだこれはと。つまりカルマがあるからだと。もう早く捨てたいと。一体どうしたらいいんだと。バクタが「神の愛だ!」とか言いながら(笑)、いろんな精神のグジャグジャした、もう見るも嫌なようなけがれでいっぱいであると。そんなの嫌だと。もう神の光でいっぱいにしたいんです、わたしは、と。すればいいじゃんと。できないんですと。どうすりゃいいんですかと。ね。それを常に考える。どうしたらわたしはこの――もちろん自分にとっても苦しいし、そして自分の理想である菩薩道やバクタの道においても、多くの邪魔となってるものすごい重荷がいっぱいあると。これを早く滅したいと。
なんで早く滅したいかっていうと、もちろん早く達成したいっていうのもあるけども、死がいつ来るか分からないから。ね。明日死ぬかもしれないし。これ、どうしたらいいんだと。
これもね、ほんとに皆さんが法を学んで、リアルにそれを自分に当てはめて日々考えてたら、そういう切羽詰まった気になるはずなんだね。ちょっともう、まずいですよと。一瞬一瞬、わたしにとっては時間との勝負であると。一体どうしたらこれを全部早く浄化できるのかと。このように考えることこそが、まあ、これはシャーンティデーヴァの言い方として、「わたしにふさわしいことだ」って書いてある。
繰り返すけど、この『入菩提行論』の素晴らしいところは、一人称で、つまりシャーンティデーヴァがまるで自分のことのようにずーっと書いてるんだね。で、これははっきり言うとシュミレーションです。つまり、われわれもここに書いてあるようにシュミレートしてね、自分もシャーンティデーヴァが書いた一人称のその主役になった気持ちで、「不浄行によって必然に生ずる苦しみから、どうして免れ得るかと、昼夜常に考えることこそ、私にふさわしいことなんだ」と。ね。昼も夜も、もう寝ても覚めても、さあ、この過去に積んだ悪業を早くどうやって浄化しようかと。で、さっきの話につなげると、そのように思ってる人にもし不意に苦しみがやってきたら、「友よ!」となります(笑)。漫画みたいなね、とんでもない嫌なやつがやって来て、「オラー!」ってやって来たら、もう両手をつかんで(笑)、「友よ!」と。「ついに来てくれましたね。」「もう困ってたんです、わたしの周り優しい人ばっかりで」(笑)。「困ってました」と。「あなたのような邪悪の塊が来てくれるのを待ってました」と(笑)。「もう神の恩寵です」と。「いや、あなた、神じゃないですか?」――というぐらいになるはずなんだね(笑)。
これはだから、普段から懺悔ができてるか、あるいは法を学んでるかの違いだね。でもこれはほんとに、なんていうかな、ベースの発想としてそれがなきゃいけない。だからもちろん今こういうのを学んで、ああ、なるほど、そういう考えもあるのかって思ったかもしれないけども、そうじゃなくてベースにそれがあると。で、修行者っていうのはほんとにそうじゃなきゃいけないから。そうだったら少なくとも修行者の中においては、なんていうかな、変な文句であるとか、あるいは他者に対する、まあ否定的な意識とか、そういうのが出ないはずなんだね。すべて自分の問題として、感謝として受け取れるようになる。
はい。そして最後の締めとして、
「導師よ、罪過を罪過として受け取りたまえ。世尊よ、かような不善を私は再び犯さないであろう。」
と。これで締められてるわけですね。これはまあ、ブッダ、菩薩、そして現実の自分の師などに対して、本当に心を開いて、まず悪業を懺悔する。「罪過を罪過として受け取りたまえ」と。つまり、繰り返すけど、別に打算的な心じゃないんだけど、まあ一応説明としては打算的になるわけだけど、当然、心を開いて懺悔しなきゃいけないんだね。そうしないと、グルとか世尊がそういう検討に入ってくれないから。
つまり、この日本の法律とかでもさ、「自己破産したいんですけど」とか言って、「でも恥ずかしいからこの借金は隠しとこう」とかいうのは、それは駄目ですよね(笑)。全部の借金を申請すると。いろいろ事情を申請して、それで上が認めてくれたらチャラにしてくれるかもしれない。そのようにまずはしっかりと心を開いて、グルや仏陀、世尊に懺悔をすると。もちろん心の中で懺悔をするでもいいし、あるいは皆さんの場合ね、たまにほんとに心に引っ掛かった大きなことに関しては、例えばわたしにメールとかしてもかまわないし。
そしてそれだけではなくて、二度とそれを犯さないぞと。ね。つまり懺悔がもちろん完全にできてたらそういう気持ちになるはずだから。もうほんとにわたしは馬鹿でしたと。ほんとにわたしは間違っていましたと。もう絶対、二度とこれからは犯しませんと。そういう気持ちを強く、日々決意し続けると。
そうだな、もちろん加行として日々いろんな修行があるから、二十四時間それを考える必要はないけども、例えば加行として一日に一回懺悔の時間があるとしたら、そういうときにしっかりとそのような心を持ってね、心からしっかりと自分の奥に眠っている悪業を懺悔し、そしてそれと同時に切羽詰まった気持ちで、わたしはこれを浄化したいと。二度とわたしはこのようなことを犯しませんと。どうかこれを浄化してくださいと、しっかりと祈ったらいいね。
はい、一応これで一つのパート、「罪悪の懺悔」のパートが終わりになります。
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