解説「菩薩の生き方」第十三回(4)
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はい。ということは、カルマ落とし、これもその二つの面から考えなきゃいけない。どういうことかっていうと、われわれが修行して、徳を積んで、祝福によって、サットヴァが強まることによって、本来だったならばもっと未来に返ってくるかもしれなかった悪業が返ってくると。つまり苦しみとして返ってくる。ここで二つ考えなきゃいけません。一つは、ここで耐えることによって、ね、過去にわたしが犯した悪業が消えるんだと。その悪業のストックがなくなるんだと。だから耐えようと。これが一つですね。これは皆さんもよくやってるかもしれない。考えるかもしれない。まあ、だから、まずはここができないと大変なマイナスになるね。それが、自分のカルマが落ちてどんどんきれいになってるっていうことに気付かず、怒ってしまったり、あるいは逃げてしまったりすると、カルマ落としにならないどころか、より大きなカルマを積んでしまうかもしれない。
で、もう一つがもっと実は重要なんだね。もう分かると思うけど、つまり、苦しみのカルマがやってきた――これは自分が過去にやったことです。で、もう一回ちょっと戻って考えてみると、わたしは過去に――今自分が誰かに苦しめられてるとして、それと同等な、あるいはもっと大きいかもしれない、小さいかもしれないが、とにかく同じ系統の苦しみを人に与えたんだと。で、当然その与えたときも心がけがれてただろうけど、与えることによってよりけがれたんだと。自分の心がね。で、それが今返ってきてるんだと。で、ここで心を正しく持つことによって、あのときけがした心を浄化できるんです。
何を言いたいかっていうと、例えば、まあ細かいことはいろいろあるだろうけど、いろんなかたちで例えば人から嫌なことをされて苦しみを感じたとしてね、そのときに――もう一回言うよ――耐える。これで現象的なカルマが落ちます。でも心のカルマはそれだけではあまり落ちないかもしれない。少しは落ちるかもしれないけどね。ほんとにそれを効果的に落とそうと思ったら、まあ単純な話なんだけどね、法に基づいた反応をすればいい。例えば苦しみを与えられても、ありがとうございますと。あるいは逆に愛をもって返すと。あるいは広い心で、慈悲を持って見ると。もちろんベースには許しがある。でもその許しっていうのは、なんていうかな、ちょっと傲慢な言い方かもしれないね。だってそれ自分のカルマなんだから(笑)。相手を許すも何もないよね。自分のカルマによって相手がやってきてるわけだから。許すっていうよりも、それを受け入れる。そして慈悲によって、あるいは愛によって相手を包み込むと。相手を包み込むっていうのはつまり、単純に「うわーっ、くそー、あいつ嫌なやつだな、しかし許してやるか」じゃなくて(笑)、愛によって、「ああ、ほんとにありがとう」と。なんていうかな、言葉にはできないけども、つまり相手に対する肯定的な――肯定的なっていうのは、その相手の存在っていうか――に対する肯定的な愛の心を向けて、相手に接すると。あるいはもし可能ならば言葉においても行動においても、例えば苦悩を与えられても、愛の言葉、愛の行為で返すと。例えばね。あるいは法に基づいた態度を貫き続ける。これによって、皆さんの心が変革します。変革というよりも、過去に犯した悪業によってねじ曲がってしまった心が修正されます。まあ修正どころか、もちろん皆さんの頑張り次第では、プラスに、つまり聖なる菩薩としての、あるいはバクタとしての心が蓄積されていく。だからこれが大事なんだね。
だから懺悔に関してちょっとまとめみたいな感じですけども、皆さんがしっかり懺悔をする重要性っていうのは、まず自分の過去の、過去に犯した悪業がどれだけひどいかっていうことに気付かなきゃいけない。で、ひどいわけだから当然それを落とさなきゃいけない。だからいつも言ってるけども、懺悔の心がしっかり身についた発想っていうのは、普通の人と発想が違います。つまり普通の人は、苦しみ嫌だと、苦しみ来ないでくれと。でも懺悔の修習、あるいは真理の法がしっかり根付いてる人は、「苦しみ来い」ってなります。だってその方が――これもだから打算的な話なんだけど――その方が楽だから。溜まりに溜まったら将来とんでもない苦しみが待ってるわけだから、それよりは早くわたしは浄化したいと。早くわたしはきれいになりたいと。早くこの――だって苦悩のカルマにいるっていうことはさ、もう苦悩のドブの中にいるようなもんだからね。苦悩のドブの中にいるようなもんっていうのは、ちょっと表現できないけどさ、「苦悩のドブ」(笑)――苦悩の泥みたいな感じでそこに浸かってますと。で、なんていうかな、人間ってさ、いつも言ってるけど、ある環境に入ってしまえば、例えばよく、まあ皆さんからすると刑務所っていうのはもう入りたくない、苦しいっていうイメージがあるだろうけど、もちろん苦しいだろうけど、でも多分刑務所に入ってしまったら、今度はその中で自分の中での相対的な苦楽を感じ始めるんだね。うん。ここでいかに快適に過ごすかと(笑)。今日のおかずはこれだとかね(笑)、いろいろありますよね。だから人間っていうのはそういう感じで、その苦悩のドブの中に放り込まれたとしても、その中でこう、いや、こっちの方がましだとかね、こっちの水の方がまだましだとかね、あるいはちょっとドブのより汚い部分、あっち行けとかね、こんなことをやってると。それよりもドブから出ろと(笑)。その方がいいだろうと。この発想ね。
つまり、普通は日々の苦悩、表面的な嫌悪によって、怒ったり、あるいは逃げたりを繰り返して、なんていうかな、ドブから出ようとしないと。でもドブから出なきゃいけない。で、ドブから出るには、もうそれを一掃するぐらいの浄化の祝福を期待するしかない。それはまさに苦悩っていうかたちで現われるわけだね。しかしこれは、その祝福の論理から言うならば、まあ皆さんに何度も言ってるけども、とんでもない祝福の、つまり、自己破産じゃないけども、とんでもないいい条件でやってくれるんですね。
つまり、まあ、ちょっとこれ漫画的な感じだけどね、つまり仏陀や世尊が、バガヴァーンが、チャラにしてくれる。でもチャラにしてくれるっていっても、何もなくチャラにはやっぱりできない。さすがにそこまでできませんと。あなたが積んだ膨大な悪業を、あなたのバクティに免じてチャラにしたいけども、さすがに(笑)、何もなしではできませんと。だからちょっとは苦しんでくださいと。まあ変な話だけどね。ちょっとは返しますよと。ほんとは皆さん、自分を振り返ってね、法に照らし合わせたら、ほんとはもう、そうだな、ちょっとリアルに言うと、五億回ぐらい地獄に落ちなきゃいけないような(笑)、カルマがありますねと。しかし恩寵によって、うーん――よし、大判ふるまい。これだけの苦しみを、十年間、ちょっと、「ううー、苦しいー、もうー」って泣くくらいの苦しみを十年間、それで手を打ちましょうと(笑)。これ来たら、「いいんですか!?」となるよね、普通はね(笑)。五億回地獄に落ちるのに比べたら、ちょっと涙が出るくらいの、人間界で涙が出るくらいの、胸が痛くなるぐらいの苦しみを十年でいいんですかと。ほんとにいいんですかと。ちょっと気が変わらないうちにお願いします(笑)――と、なるよね。
世尊側からすると、「え、いらないの? いらないなら別にこの条件なしにするよ」って感じなわけだけど、修行者側からすると、ほんとに法が分かってる人だったら、「いいんですか!?」と。「お願いします!」と。「どうかその条件でお願いします!」となるんだね。
これは今ちょっと漫画的に言ったけども、言いたいこと分かりますよね? つまりグルの祝福、仏陀の祝福っていうのは、それくらいの膨大な悪業も――だから皆さんも考えてみたらいいね。皆さん、日々いろんな苦しいことあるかもしれないけども、地獄の住人に比べたらましでしょ? 当たり前だけど。あと、もっと皆さんが謙虚だったら、なんていうかな、自分が積んだ悪業にこれは値しないと思うと思う。つまり、いや、確かに苦しいけども、わたしが積んできた悪業に比べたらこれは軽いなと。こんなんでいいんでしょうか?と。ほんとに仏陀は、グルは、慈愛が深いと。わたしは膨大な、その何十倍もの悪業を積んできたのに、これだけで済ましてくださるとは、って考えるはずなんだね。
でもみんなはそうじゃなくて(笑)、傲慢だから、「なんでこんなのが来るんだ!」と。当たり前だろと(笑)。君がやってきたことを考えたら当たり前でしょと。ほんとだったらそんなんで済まないでしょと。だからこれは懺悔によって謙虚な心ができてるかどうかの違いなんだね。
だから謙虚な心ができてて法がしっかり分かってる人は、苦しみにひるまない。だってそんなの当たり前だから。当たり前どころか小さな苦しみだから。逆にそれを喜ぶ。
はい、そしてもう一回、今日言ったことを繰り返すと、そこにおいて、ああ良かった、この苦しみによってわたしはどんどんきれいになっていく、カルマが落ちていく――と同時に、さあ、今度こそわたしは間違わないぞと。過去においてわたしはいろんな場面でいろんな苦しみや、あるいはいろんな欲望に翻弄されて多くの過ちを犯して心をけがしてきたと。それによって心がねじくれてしまったと。今度こそはこの強烈なショックにおいて、正しい心を保つことによって――まあ、でもこれはほんとに漫画的なんだけど、実際そんな感じなんですよ。そんな感じってどういう感じかっていうと、過去のいろんな苦しみによってグーッとねじ曲がってしまった――これをね、ちょっと変な言い方だけど、もちろん日々修正することもできますよ。日々修正っていうのは、日々ちょっとずつそのねじ曲がったのを修正すると。つまりこの平凡な、平穏な日々の中で少しずつ少しずつ変えていく。これ、できます。できるけども、まあ、パワーが足りないんだね。そうじゃなくて苦悩の嵐がやってきてるときっていうのは、強烈な力が来てるから、「ウッ!」――これ、チャンスなんです(笑)。このときに思いっきりその流れに自分の心をグーッと乗せられれば、「グオーン!」って変わるんだね(笑)。
これが苦悩における――もちろんそれは苦しいけどね。さっき言ったように、例えば人からいろんな嫌なことをされてるときに相手を愛せるかと。普通愛せません。なぜ愛せないかというと、つまり愛せないからそういう悪業を積んできたわけだから。邪悪な心があるから過去にそういう悪いことをやってきた。で、それが返ってきてるから、当然それがある人には愛せない。だからここで必要なのは、いつも言ってるけども、修行者としての理性。つまり、おれの心はもう完全に愛とか法から離れてしまってるが、わたしは修行者だと。わたしは菩薩だと。だから関係がないと。心の習性がどうなってようが関係がない、こっちだと。ね。この、思い切った、なんていうかな、エゴの、あるいは習性の働きに甘んじない修行者としての凛々しい理性っていうかね、志っていうか、それが大事なんだね。で、それによって――繰り返すよ――そのカルマが解放されてるときに正しい心持ちを取ると。もちろん最低限、まずは耐えると。だから心がちょっとついていけない場合、まずは耐えると。これだけでももちろんオッケーです。これだけでも最低限はオッケー。しかしより効果的に心を変えたかったら、そのカルマ落としの嵐の中で、より肯定的な、あるいは積極的な愛の実践や、あるいは真理の法に基づいた心・言葉・行為の実践を行なうと。これによって、強力に皆さんの心が変わります。これが一つの、懺悔の重要な部分ですね。
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