解説「菩薩の生き方」第十三回(3)
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はい、だからそれをしっかりと考えなきゃいけないね。まあ、もうすぐこの懺悔のところ終わりますけども、もう一つ突っ込んで言うと、例えば欲求とか欲望は別にして、そうですね、怒り、あるいは、そうだな、苦しみに対する逃げの心、これについてももうちょっと考えてみると、われわれは当然過去に、あるいは過去世において多くの悪業を積んできたと。で、それによってわれわれは苦しみを経験しなきゃいけないわけだね。で、この、悪業を積んできたから苦しみを経験しなきゃいけないっていう意味は、二つあります。二つあるっていうのはつまり、皆さんもしっかり教学してると分かると思うけど、カルマっていうのは二つある。それは、例えば悪業といった場合、一つは、悪業を積んだことによってその悪業の苦しみが将来返ってきますよと。これ一つね。で、もう一つありますね。もう一つはなんでしょうかね。じゃあTさん、なんですか? 悪業を積んだ果報っていうのは、一つは苦悩が将来返ってくると。もう一つは?
(T)良いことが返ってくる。
なんで良いことが返ってくるの(笑)。良いこと返ってこないでしょ。悪業を積みましたと。うん。その果報としては、悪業を積んだから将来苦しみが返ってきますよと。これ一つね。もう一つの果報は? 悪業を積んだ果報。悪業によって起きること。
(T)ああ……自分の心がまたけがれる。
そうだね、心がけがれると。その二つの果報がある。果報っていうのはつまり、それを因として何が起きるかっていうことだから。つまり、悪業を積みました。果報は、一つは苦しみが返ってくる。もう一つは心がけがれますと。この二つね。
いつも言うけど、皆さんは徳がある。っていうのは、例えばカルマの法則においてもこのような説き方、教えは、多分普通教えません。――教えませんっていうか、説いていません。まあ、それどころか、何度も言うけど、最近はネットとか見ると、お坊さんとか、「わたしは仏教研究家です」とか言ってる人たちが、例えば輪廻を否定すると。輪廻転生を信じないと。いや、それどころか、人によってはカルマも否定するんだね。わたしはびっくりしたけど、「わたしは仏教を学んでる者です。研究しています」って言って、「カルマってほんとはないのかもしれない」とかね。「あれはほんとじゃない」とかね。ええー!?って感じですよね。まさにカリユガって感じなんだけど(笑)。カルマさえも信じないとか、あるいはもちろんそうじゃなくてカルマの法則は信じてる、あるいは理解してる人でも、やはりその理解がちょっと中途半端っていうかな。すべてがカルマじゃないとか言ってるね。すべてカルマです(笑)。この世はカルマで成り立ってる。しかしそのカルマっていうのもいろいろ意味があって、もう一回言うと、悪業っていうことをいった場合、悪業の果報は将来その悪業にその対比する苦しみが返ってきますよと。まあ簡単に言うと、誰かを殴ったら将来自分も殴られるかもしれませんと。で、もう一つは、それだけではない。例えば暴力の場合ね、暴力というその地獄的な行為によって、自分の心がけがれる。けがれるっていうのは、つまり地獄的な嫌悪とか憎しみが強くなる。どっちかっていうとこの後者の方が怖いんだね。だって前者は返ってくれば終わりだから。でも後者はそれによってより心がけがれ――けがれるっていうことは苦しみが多くなるっていうことです。この後者の方が怖い。
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