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解説「菩薩の生き方」第十三回(1)

2015年10月31日

解説「菩薩の生き方」第十三回

 この作品は『入菩提行論』の解説ね。これはわたしが、勉強会ではなくて書き下ろしで書いたものなので、非常にシンプルにまとまっているものですね。だから実際は解説はもうこれ以上いらないような話なんですけども、より深く味わう意味で、みんなでしっかり学びましょうっていう勉強会ですね。
 『入菩提行論』は、何度も言いますけども、まあ、わたしが思うには大乗仏教における最高の作品ですね。例えば日本っていうのは一応は大乗仏教国ですけども、中国語読みの仏典が根付いてるから、ちょっと、内容的にはあまり仏教の深い部分が民衆に伝わってないところがあるんだけど。ただまあ一応伝わってる経典はいろいろあるわけだけど、例えば法華経、あるいは阿弥陀経、あるいは般若心経、あるいは密教の大日経その他いろいろあるわけですけども、もちろんそれらも素晴らしいが、もし一冊選ぶならば、もう間違いなく大乗仏教においては『入菩提行論』だね。
 これは何度も言ってるけども、ダライ・ラマ法王もチベットから亡命するときにただこの本だけを持って亡命したと。それだけ、大乗仏教のエッセンスが凝縮されている。まあしかし、なぜか――なぜかっていうか、まあチベットではもちろんほんとに最高の評価を得ているわけですけども、日本ではなかなかまだあんまり知られていなくてね、これは非常に残念なところですね。
 で、『入菩提行論』をもちろんそのまま読むのもいいですしこの『菩薩の生き方』はよりそのエッセンスをね、シンプルに解説してるので、まあ、これもできるだけ何度も読んで、自分の座右の書の一つにしたらいいと思いますね。

【解説】

 「先に享受してすでに滅び去り、また、それに愛著して私が師の言葉にそむいたその享楽――それから今、どんな価値が私に残っているか。」・・・ここは耳の痛い人が多いのではないでしょうか(笑)。
 一時的な煩悩に心奪われ、ブッダや聖者の教えや、自分の師の言葉にそむき、いろいろな享楽にうつつを抜かしてしまったことが何度もあったかも知れません。しかし、教えや師の言葉にそむいてまでも行なったその行為によって、何も価値あるものは今、自分の中に残っていないのです。あるとすればそれは、聖なるものとの縁を傷つけたということと、悪業とでしょう。そんな行為に、意味があったのでしょうか?

 シャーンティデーヴァのこれらの一連の表現は、何もただ過去への後悔の言葉をつらつらと述べているわけではありません。「多くの悪業を積んできた我々が今死ぬとしたら」というシミュレーションによって(同時にそれはシミュレーションではなく現実でもあるのですが)、決して今からはそのような過ちは起こさないぞ、繰り返さないぞという、強烈なショックを心に与えようとしているわけですね。ですからこの経典は論書というよりは、実際に修行に役立てるための道の書として読むべきだと思いますね。

 客観的論書としてこの書を読むより、我々もシャーンティデーヴァ自身になりきって、ここに書いてあるような感情を、瞑想するのです。そして強い恐怖と後悔と決意の気持ちを意識的にわき起こさせるのです。このような恐怖と後悔は、唯一価値のある、そして最高の恐怖と後悔なのです。なぜなら有無を言わせず、我々を解脱の修行と菩薩行へと強く駆り立ててくれるからです。
 そのようなシャーンティデーヴァのシナリオを、我々も演じきるべきですね。そのような読み方をするなら、この書は最高の利益を発揮すると思います。

 はい。これもつまり、この『入菩提行論』が最高の本だと言っている一つの意味でもあるんだけど。実際には『入菩提行論』だけじゃないんですけども、仏典っていうのはつまり科学的な、いわゆる分析的な本ではないんだね。そういう経典もあるけども、実際それはあまり価値はない。あまり価値はないっていうのは、例えば宇宙はどうなってるとか、この世の法則はこうなってるとか、それをただ述べただけの本っていうのは、まあ実際にはそんなに価値はない。そうじゃなくて、それを読むことによってわれわれが目覚め、あるいはそれを修習することによってわれわれの心もそのように導かれていく、つまりまさに実践の書なんだね。読むことによって、あるいはそれを深く考えることによってわれわれが仏陀の境地に導かれるようなテキスト、これがそもそも仏典です。で、その要素っていうかな――が非常に強くあるのがこの『入菩提行論』。だからこの『入菩提行論』って、もう一回言うけども、最高の書って言ってるのは、分析的なものではなくて、これを何度も何度も繰り返すことでシュミレートされ、われわれの心が鍛えられていくような書なんだね。
 はい。で、この部分に関して言うと、これは読んでもう分かると思うけども、

「先に享受してすでに滅び去り、また、それに愛著して私が師の言葉にそむいたその享楽――それから今、どんな価値が私に残っているか。」

 ――これはとても素晴らしい、そして耳の痛い話であるね。これはここにも書いてあるけども、まず、そうだな、ここの読み方はもちろん二つあるね。一つは実際の過去に関する話、そしてもう一つは現在、そして未来に関する話ね。過去に関してはもちろんしっかり懺悔して反省するために、自分の過去の過ち、あるいは自分の過去に犯した不誠実っていうかな、それをしっかりと考え、で、それが――もう一回言うよ、ここに書いてあるように、かつて――つまりシュミレート的に自分の中でそれをしっかり瞑想してね、ああ、わたしはかつて、小さなことから大きなことまで含めて、師の言葉にそむき、あるいは経典や教えの言葉に背き、一時的に自分のエゴを満足させるためにいろんなことをやってきたと。で、そこで一時的な楽を得たり、あるいは一時的にストレスを解消させたり、あるいは一時的にエゴを満足させたりしたかもしれないが、それはほんとに一瞬であって、今何が残っているか、という話だね。
 これは最近何度も言ってるけども、そのときはもうそれで頭がいっぱいで、もう師の言葉、あるいは聖典の言葉なんて耳に入らずにエゴのままにふるまったと。で、それが終わったと。終わって心が落ち着いたと。ひどい悪業、そして傷つけてしまった縁、心のけがれ、これだけが残ってる――これの反省ですね。で、こういうことをわたしは何度も繰り返してきたと。これをまずは、もちろん過去のことに関しては完全に懺悔し、そして心を入れ替えるように考えなきゃいけない。
 そして、もちろんそれだけではなく、それを土台として、今現在、そして未来における過ちを犯さないように考えなきゃいけない。いろんな苦しみ、あるいはいろんなエゴの誘惑、あるいはいろんな欲望がやって来るだろうと。しかしそこで生じる、例えば欲望を叶えたとしても、あるいは怒りを発してエゴが満足したとしても、あるいはさまざまな教えと反するエゴの欲求を叶えたとしても、それは本当に一時的な喜び、一時的な満足、一時的な心の納得しかなく、そのあとに来るものっていうのは、繰り返すけども、とんでもない苦しみをもたらす悪業だったり、あるいはほんとに、絶対に傷つけてはいけない真理との縁の傷であったり、あるいはより心のけがれを強める結果だったりね、そうなるわけだね。
 だからそれは、繰り返すけども、まず過去のことをしっかりと考え反省し、そしてそれを現在の自分の心に、なんていうかな、防御線を張るようにしておくわけだね。そして何か自分の心がエゴに負けそうになったときに、それをしっかり考える。
 ほんとにわれわれの心っていうのは馬鹿だから、ほんとに深く考えないと――こんなことは、だからさ、理性がちゃんとはっきりしてたら大丈夫なはずなんです。理性がはっきりしてたら大丈夫なはずっていうのは、だってみんな長く生きてるわけだから。二十年、三十年って生きてると。そして修行もまあ数年やってきてると。だからもう分かってるはずなんです。分かってるはずっていうのは、エゴがバーッてきたときに、これ、一時的だぞと(笑)。ここでやっちゃったら、エゴのままに振る舞っちゃったら、そのあと自分の心はどうせ落ち着くから、落ち着いたあとにすごい後悔だけが待ってるぞと。そしてすごい、より大きな苦しみの種をまた積んでしまうぞと。こんなことは分かりきっている。分かりきっているんだけど、心が馬鹿だから、その瞬間の流れに乗ってしまってとんでもない過ちを犯したり、とんでもないエゴを発散させてしまったり、あるいはとんでもない欲望を享受したり。まあ、もちろんそれも単なる一つの悪業だけで終われば――まあ、それも駄目だけど(笑)――まだましかもしれない。実際に言えば、この世っていうのはそんなに甘くないからね。甘くないっていうのは、その一瞬の過ちによって大きくカルマが狂うこともあるからね。
 まあ、これは現実的には、あんまり例を挙げないけども、いろいろ考えられるでしょ。一瞬の過ちによって、そんな大したことと思ってなかったけども、あるいは一瞬のエゴを発散したことによって、いろんなことが崩れたりとか、いろんなものすごい新たな苦しみの流れが始まってしまったりとか、いろいろありますよね。あるいは大きな、ほんとに大事なものが自分から離れていったりとか、いろいろあるよね。だからほんとにこの世のカルマっていうのは怖い。

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