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解説「菩薩の生き方」第十一回(6)

 はい。ではもう一回、本文もちょっと見てみましょうね。ちょっと時間がないので簡単に見ていきますが、「一切の方位に住する仏陀方や菩薩方に告げます」と。「無始の輪廻において、あるいは今生において」――無始の輪廻、つまり無数の過去世、そして今生生まれてから、「獣のごとき私が、いかなる悪をなし、あるいは他をしてなさしめたとしても、あるいは無智のゆえに、身を滅ぼすための罪過を是認したとしても――かかる罪過を、私は後に受けるべき苦痛に悩まされて、告白する」。
 ちょっと時間が無いので簡単に言うけどね、いつも言ってるように、皆さんにとっては――例えばバクティヨーガっていう教えがあって、で、ここではバクティヨーガプラス菩薩道を教えてる。これはね、とても重要なことなんです。なぜかっていうと、バクティヨーガっていうのは、なんていうかな、いい意味でですけどね、さっき言った悪い意味じゃなくて、いい意味で、かなり楽天的です。なぜかというと、すべて神に任せてるから。神に任せてるからオールオッケーの世界なんだね。だから実は本当のことを言うと、バクティヨーガの世界においては懺悔すらいらない。しかし、実際は必要です。なぜかというと、完全にバクティできてないから。だから完全にバクティできてなくて、振りだけバクティの振りをしてると、もう落ちます。だから――もちろん完全なバクティを目指さなきゃいけない。目指さなきゃいけないけどもまだできてない部分をどうにかしなきゃいけない。これはこの菩薩道が非常に強い力になるんだね。
 で、ここも同じで――ここの一文ね。「かかる罪過を、私は後に受けるべき苦痛に悩まされて、告白する」と。この、わたしはこのままだと、のちに、カルマの返りとしてね、苦しみを受けなきゃいけないから、それが嫌だから懺悔します、っていう気持ちね。これはさ、真のバクタとか真の菩薩道にとってはいらないでしょ、本当は。だって真のバクタとかっていうのは、自分の苦しみはどうでもいいはずだから。あるいはすべておまかせしてるはずだから。だから「おまかせです!」でいいんだけども、でも繰り返すけども、基本にこの考えがないと駄目なんです。つまりわれわれは、究極のバクティの世界に入れない一つの原因として、間違った打算、間違ったエゴの、なんていうかな、打算を持ってるんだね。だからその間違ったエゴの打算を――いつもこの菩薩道のときには言ってるけども――言葉として言うならば「聖なる打算」。ね。つまりこの『入菩提行論』って、全体的に言うならば、聖なる打算の話です(笑)。エゴに教えてるんだね。エゴっていうのは、皆さんを苦しめています。でもエゴ自体は別に苦しもうとは思っていない。エゴはもちろん幸せになろうと思ってるんだね。でもばかだから、幸せになろうと思って変なことばっかりしてる。だからこの「わたしのエゴ」、自分のエゴに対して、正しい幸せのなり方、これを教えてあげるんですね。教えてあげないと間違ってしまう。
 で、だからそのために、なんていうかな、基本的な考え方の――つまりエゴっていうのは、苦しみたくないと思ってる。苦しみたくないと思っていながら悪業をなしてる。つまり、自分を守ること、あるいは自分を守って、人を排斥すること――これが苦しみから逃れる手段だって間違って考えちゃってるんだね。だからそれをちゃんと教え込む。苦しみから逃れるためにわたしは懺悔するんだと。苦しみから逃れるために修行するんだと。苦しみから逃れるためには、しっかり懺悔して心を浄化しなきゃいけないんだと。これをちゃんと自分に教え込むんだね。だからこれはこれで大事です。これはこれでちゃんと、自分でちゃんと心に思い込ませる。しかし同時に、繰り返すけども、最高の理想としては、わたしは苦しみも喜びもどうでもいいんだと。ただすべてはおまかせなんだと。来世地獄に落ちようが天に行こうが解脱しようが、それもすべておまかせなんだっていうその最高の理想は絶対外さない。外さないで、繰り返すけども、目の前にある、しかしエゴがなんか変なことやってると。これに対して、こういった現実的な菩薩の教えでちゃんとそれを浄化していくんだね。だからこれはどっちもしっかりと学ばなきゃいけない。

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