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解説「菩薩の生き方」第六回(8)

 はい。で、最後の方で書いてあるのは、これもいつも言ってることですけどね。皆さん自身がそれによって奇跡的に救われると同時に、縁のある人たちも救われると。
 これはだからさっき言った『蜘蛛の糸』の話とかもそうですけどもね。あの『蜘蛛の糸』っていうのは、最後、自分が糸を上ろうとしたらほかの地獄の住人たちも上ってきて、「おまえら、これはおれの糸なんだから、おまえら上ってくるな!」って――だって蜘蛛の糸だからさ、「一人でも切れそうなのに、おまえらも来たら駄目じゃないか」と。「おれも救われないじゃないか」と。「だからおまえらはもう早く手を放せ!」って言った瞬間に、彼の手元から切れたという話なんだけど(笑)。
 前も言ったかもしれないけど、この『蜘蛛の糸』の話ってとてもよくできてるんだね。とてもよくできてるっていうのは、まず、確かにね、この、われわれが――ここではお釈迦様がいる浄土に向かう道ですけども、浄土に向かう道は、まさに蜘蛛の糸みたいな道なんです。つまりそれは、細く、そして頼りない。頼りないっていうのは、ほんとに――もちろんその上るのも力がいるけども。力と忍耐力がいるけども、で、同時に、注意力がいるんだね。つまり気を抜いたら切れてしまうんです。だからほんとに、慎重に慎重に……つまり、なんの例えかっていうと、自分は道から外れてないかな、自分はこの蜘蛛の糸が切れるようなことをしてないかなっていうことを日々念正智して、慎重に慎重に行かないと、すぐに切れてしまう道なんだね。だからそういう、なんていうか、心構えが必要ですね。
 で、最後はお釈迦様がね、上から見てて、カンダタがエゴで自分だけ救われようとしたら落っこっちゃったと。で、それをお釈迦様は悲しんで、ああ、あそこでカンダタがね、みんなと一緒に来ようって思ってたら、みんな一緒に浄土に上げてあげたのに、ほんとに悲しいことだって悲しむっていう物語なんだけど、でも大乗の道って確かにそういう道があるんですね。みんなを救いたいっていう気持ち、あるいは自分にその責任がかかってるっていう気持ちを、その中心にいる人が持つことによって、縁のある人たちもこうグワーッて引き上げられるっていうかな。よって、大乗なんだね。大乗っていうのはつまり、大きな乗り物なんです。で、その大きな乗り物の――もちろんグルがいてね、あるいは偉大な聖者がいて、それが大きな乗り物の船長になるわけだけど、でもそれとオーバーラップするかたちで、皆さん個人も、周りの縁のある魂を乗せる船の船長になってるんだね。
 これはいつも言ってるけども、例えば、まあ例を挙げるとね、仮の話としてね、Y君と縁のある一人の人がいて。でもその人はわたしとあんまり縁がないかもしれないです。この場合、Y君にかなり責任があるんだね。Y君が頑張ることによってその人は救われるかもしれない。わたしが何を言っても駄目だけども、Y君の修行がステージアップすることで、影響を受けて、上がることがあるんだね。影響を受けるっていうのは、神秘的な影響もあるんだけど、それだけじゃなくて、われわれの縁っていうのは、人間関係の縁っていうのはすべてカルマによって結び付いてるからね。だから当然影響を与え合ってるんです。いつも言ってるけどね。
 この話は何度も言ってるけど、簡単な例で言うと、例えばY君とAさんっていう人が、憎しみを与え合うカルマっていうのがあった場合、当然、表面上は仲良くしてても、なんていうかな、憎しみで害をバーッて与えて、で、それによってY君が苦しんで、で、またバーッと憎しみを返して。このカルマが延々と続く縁があると。例えばね。で、この縁に変化をもたらすことができるのは、真理というものを知ってる人だけなんです。Y君が真理を学び、修行し、心の訓練をして、で、グワーッて相手からの攻撃が来たときにグッと耐えて、それを、攻撃ではなく愛によって返すと。愛によって返すことができたならば――これは別に相手のことを考えてなかったとしてもね、Y君の心が変わってて、愛によって返ったとしたならば、当然相手もちょっと変わっちゃうんだね(笑)。相手は今までは憎しみのキャッチボールしかしてなかったのに、愛のボールが来ちゃったと(笑)。で、困っちゃうんだね、この人は(笑)。つまりその人はカルマ的に言って、この人も誰かに愛を返さなきゃいけなくなっちゃうんです。それはY君かもしれないけど、ほかの人に返すかもしれないよ。ほかの人に返したら、このほかの人もその人と別のかたちのけがれた縁で結び付いてたら、この人もびっくりします。「何これ! こっちに来た!」と(笑)。こういう感じで、その中心人物の修行の進化によって、カルマ的な意味でも、もちろん、プラス、エネルギー的なものもあるよ。波動であるとかエネルギー的なものもあるけども、カルマ的な意味でも、周りが変わってしまうんですね。
 で、ここに書いてあるのは、それができるのは、つまりそのような縁で結び付いてるグループがあったとして――グループっていうのはもちろん一つのグループではない。例えば、なんていうかな、友達関係とかと同じでね、例えばY君に五人友達がいるとして、そのうちの一人であるAさんにも五人友達がいるとして、そのうちの一人はダブってる場合があるよね。共通の友と。ね。この共通の友達の一人は、また誰かと友達かもしれないとか。そういう感じでダブりがあるんだね。いろんなかたちでいろんな縁が結び付いてる。で、その中で、誰かが頑張って修行して、自分のカルマを変えるような、超えるようなことをやったならば、それに関係する者たちもグーッとカルマが変わっていくんだけども、そもそもそのような道に気付き、そのように自分を本質的に変えていこうっていける人っていうのは少ない、非常に。
 でも皆さんは気付いちゃった。ね。いつも言うように、まさに、ご愁傷様ですと(笑)。

(一同笑)

 ご愁傷様(笑)。ね。「あ、気付いちゃいましたね」と。はい、もう責任重大です。これははっきり言うと、ちょっと厳しく言うと、これでやらなかったら逆に悪業です(笑)。だってそうでしょ。どっちかっていう考えになるからね。もしここで皆さんが――皆さんっていうかその真理に巡り合った人が、頑張って修行して、自分を変えて進化したならば、一気に多くの人も、まあ、いろんなかたちで救われていくと。こういう条件があるのにやらなかったとしたら(笑)、逆に悪業と言ってもいいくらいだよね。うん。
 でもそれくらいの責任感を自分に持たせて、つまり自分の愛する、あるいは縁のある多くの人々を救う、あるいはその礎になれるのは自分しかいないんだと。そのためには自分が一生懸命修行するしかないんだと。まずは自分が変わって、聖者になっていくしかないんだと。
 だからいつも言うようにさ、インドとか中国とかで間違った大乗仏教がはびこったことがある。その間違った大乗仏教っていうのは、いやあ、おれたちは大乗なんだから、厳しく山にこもって一人で修行する必要はないんだと。世の中に入っていってみんなを救うんだと。でもその人たちは、世の中に入ってるけど自分はあんまり修行しないと(笑)。ただ「愛だ、愛だ」とか「菩薩だ」とかだけ言って、修行はあんまりしないと。で、煩悩まみれになって、「わたしたちは菩薩道ですから」とか言ってると(笑)。それは違うんですね。いつも言うように、菩薩こそは――つまり小乗の、自分の修行だけ考えてる人以上の――つまり自分の修行だけ考えて山にこもってひたすら修行してる人がいますと。菩薩はその人の何百倍も修行しなきゃいけません。しかも世俗でです(笑)。だから大変なんだね。そういった例えば小乗の人っていうのは、世俗では修行しにくいと言って、山にこもって修行してると。菩薩は、世俗で確かに修行しにくい。しかし世俗で修行する。しかも――もう一回言うよ――しかも、自分一人の解脱だけでも大変なのに、多くの人を解脱させられるくらいのパワーを身に付けるくらいの、高い解脱をしなきゃいけない。それを、この世の中でやるんだね。だからそれが、菩薩の覚悟っていうかな。本当の菩薩の道だっていうことですね。
 で、それを、もう一回言うけども、皆さんが、まずはそれに憧れを持ち、そしてそれを真剣に考え、そして自分のできるところからでいいけども、真剣に日々の修行や、あるいはさまざまな、なすべきカルマヨーガに励むと。これをなしたならば、皆さんの縁のある、あるいは皆さんの愛する周りの人々も、どんどん救われていくと。そしてそれは逆に言うと、それができるのは、皆さんと縁のある人の中で、皆さんだけかもしれない、自分だけかもしれない、っていうことを強く考える。その責任を強く考えて、で、それによって自分の心を鼓舞して、修行するんだね。
 だから最初の方で言ったけども、もう一回言うけども、ちょっとね、まとめ的に言うけどね、われわれは、バクティヨーガと、そして菩薩道、この二つの道を歩んでる。で、バクティヨーガっていうのは、もう一回言うけども、ほんとに、できるだけ心を純粋にする。純粋にしてガッと心を神に合わせると。この神に心が合ってる状態をできるだけキープすると。で、菩薩道に関しては、単純に「菩薩!」みたいなイメージでやるんじゃなくて(笑)、今言ったようにほんとに真剣に考えなきゃいけない。わたしは菩薩なんだと。で、それはもちろんバクティ思想と合わせてもいいよ、もちろん。わたしは神のしもべなんだと。みんなを救うには、こんなけがれた自分では神の道具として使ってもらえないと。よって、一分一秒を惜しんで自分を浄化して、みんなを救える、純粋な、有能な道具になれるようにならなきゃいけないんだと。そのためには表面的な知識とかは、ある程度は必要ですけども、そういうのはもうほんとに表面的な話であって、自分の心がもっと浄化され、もっと自分の悟りが深まり、あるいはエネルギー的にも覚醒し、どんどんどんどん聖者にならなきゃいけないんだと。
 だから標語としては、「衆生を救おう」と。「そのために聖者になろう」と。標語ね(笑)。もちろんバクティも同じ。なぜかというと、衆生を救うこと、これ自体が、主の、つまり神の意思だから。神の意思とはなんだと。衆生を救うことであると。衆生を救おうと。そのためにまずわたしが聖者になろう、という感じだね。これを日々、真剣に考える。真剣に考えて、まあ自分の心がそれでいっぱいになるっていうかな。さっき言ったように、それが自分の欲望くらいのレベルまで引き上げられなきゃいけないんだね。

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