解説「菩薩の生き方」第六回(6)
【本文】
ところで、私は思うのですが――極めて重い罪人というのは、誰のことでしょうか? 解脱していない限り、誰にとっても過去というのは、暗く罪悪に満ちたものです。それは当たり前といえば当たり前のことなのです。
よく、テレビや週刊誌などで、犯罪を犯した者が責められますね。もちろん犯罪は悪いことです。しかし実は誰にも、それを責める権利などありません。過去にどんな罪も犯したことがない者がもしいたら、責めればいいでしょうが、そんな人がどこにいるのでしょうか?
我々は誰もが罪悪に満ちています。しかしそれはすべて、過去のことといえば過去のことです。だからとらわれる必要はないんだけど、それら過去の行為によって今があるというのも事実です。だから我々の現在は苦に満ちているのです。そしてこの苦に満ちた現在の中で、我々は正気を失い、更なる悪を積み重ね、「しょうがないよ」という妥協の中で、魂を汚す生き方に埋没しています。
そこから這い上がるために、今と未来を変えるために、ヨーガや仏教では、真理の教えとその修行を提示します。そしてその中でも最高のもの、最も強力で、たちまちにしてすべてのネガティブな要素を打ち砕くほどの威力を持つもの――それが「菩提心」だというのです。
最後の一節は、日本でも有名な大乗仏典の「華厳経」の内容を示しています。この経の中で善財童子という菩薩が、様々なグル、菩薩、神などをたずねて教えを受けるのですが、その中でマイトレーヤ(弥勒菩薩)が、彼に菩提心のすばらしさを様々に説いたというわけです。
はい。極めて重い罪悪人ね。罪人。その罪悪もたちまちに菩提心が焼き尽くすっていう話で、で、その極めて重い罪人っていったい誰なんだっていう話。ね。それは、ここに書いてあるのもよく言ってることですけどね。われわれは人の悪を見てもしょうがない。ここに書いてあるように、例えばテレビとか週刊誌で、犯罪を犯したり、あるいは、そうですね、社会的に良くないことをした人たちが、非常にこう――彼らももちろん仕事だからしょうがないんだけど、もうワイドショーとかのコメンテーターとかが「ほんとにこれは!」みたいな感じで(笑)、もう正義の使者みたいな感じで、もう徹底的にこう断罪するわけだね。うん。もちろん皆さんはそういう性質はどんどんなくさなきゃいけない。逆にね。人を批判する、人の失敗を批判する、人の悪を批判する――その逆に、相手の気持ちを考えて――相手の気持ちっていうのは、加害者も含めてね、考えてあげられる人になってほしいね。
特に、そういった犯罪もそうだけども、あるいは心のけがれとかもそうですけども、ほんとに相手のことを百パーセント理解しているならいいけども、でももちろん百パーセントは理解できないわけですよね。ということは、その裏に何があるかわからない。例えばほんとに誰が見ても、いつも悪態をついてね、いつも人を傷付けていて、ほんとに心が乱れていて、ほんとに人の邪魔になることしかしないような人がいたとしても、ほんとはいいやつかもしれないよ、その人。うん。ほんとはすごい純粋で、ほんとは根っこの方ではみんなの幸せを考えていて、でもいろんなボタンの掛け違いで、もうどうしようもなくなって、なんか害悪の塊みたいになってるのかもしれない(笑)。でもほんとは誰よりもきれいな心を持ってるのかもしれない。わかんないんだね。でもわれわれはほんとに表面だけを見て、勝ち誇ったように、相手のけがれや失敗をもう徹底的に批判するわけだね。この性質はもちろん、われわれは捨てなきゃいけない。
だから、よくラーマクリシュナの弟子たちが言ってるように、決して人の過失を見るなと。人の悪いところを見るなと。人を批判するなと。逆に人の良いところに気付かなきゃいけない。
特に菩薩はそうですよ。例えば今言ったように――じゃあ、これは仮の話だけどね、ほんとは心の中に良い部分があって、でもいろんなボタンの掛け違いで、ちょっとこう、人に苦しみを与えるような人になっちゃってる人がいたとしてしてね、当然みんなその人を嫌いになりますよね。でも、われわれまでもが、つまり菩薩までもがその人をわかってあげられなかったら、その人はどうするんだっていう話ですよね。誰がその人をわかってあげられるんだと。もちろんこっちにもまだ智慧がない場合は、その人のことをリアルにはわからないかもしれないが、でもそのような教えを学んでるわけだから、まずは自分のその偏見とか観念はなくして、いや、必ずこの人にもいいところがあるはずだと。そしてさまざまなカルマのこんがらがった状態によってね、今この人自身がとても苦しんでるんだと。だからわたしは、みんながこの人を憎んだとしても、わたしはこの人を愛そう、という気持ちを菩薩は持たなきゃいけない。
だから、一般的にいうところの悪人のことを言ってるんじゃないんだね。実際にはね、ちょっと極論するけども、極論するけども、世間でいわれてる悪人がほんとの悪人かどうかわからない。どころか、ほんとの悪人じゃない可能性が強いと言ってもいい。なぜかというと、世間は迷妄だから。わたしは別に陰謀論を言うつもりじゃないけど(笑)。陰謀論っていう浅い話じゃないんですけど、つまりお釈迦様が言ってるように、真理を悟った者と、世間の人々の発想とか考えは真逆になると。だって世間は、この社会は、イエス・キリストさえも殺してしまった。それだけ迷妄なわけですね。で、この迷妄な中で悪人といわれてる人がほんとに悪人かどうかわかんないよ。もちろん逆に善人といわれてる人がほんとに善人かわかんないよ。だから、そういうことを言ってるんじゃない。でもそうなると、当然われわれにとっては、誰が悪人で誰が善人か――まあ、もちろん百パーセントの善とか悪とかはないわけだけど、誰がどれだけの悪人でどれだけの善人かっていうのはわからないね。わからないというよりも、それを見てもしょうがないんだね。
われわれは他人に対しては、お釈迦様も言ってるように、他人の過失を数えてもしょうがないと。自分のやったこととやらなかったことを数えなさいと。ね。自分のことをしっかりと振り返ってみると。で、ここの、ちょっと流れの話で言うと、極めて重い罪悪人でも、ね、菩提心があれば救われるんだと。で、われわれも、まあ人と比べてもしょうがないわけですけども、多くの悪業をなしてきたと。で、多くの、なんていうかな、心をけがしてきたと。で、これはね、ラーマクリシュナが言うように、その罪のことをいっぱい考えてもしょうがないんだけど、ただここでは一応考えるけどね。一応考えると、つまり、何を言いたいかっていうと、皆さんがもし真理に目覚めたならば、あるいは真理に対するさっき言った覚悟ができたならば、もう罪のことは考えなくていいです。でもそうじゃないならば考えた方がいい。どういうことかっていうと、いいですか、われわれは、この観点で言うならば、もうかなり悪業を犯しています(笑)。相当悪業を犯してる。仏教の、あるいはヒンドゥー教の、ヨーガの基準で言うならば、もう、ちょっとほんとに取り返しのつかないぐらいの悪業を犯してる。うん。だからここでいわれてる極めて重い罪悪人っていうのはわたしのことであるって考えた方がいい。わたしこそまさに極めて重い罪悪人であると。そしたらここに偉大な仏陀が現われ――まあ、変な話だけどね――素晴らしい取引条件を持ってきましたと。あなたはもう救われませんよと、普通は。なんかどっかの営業の人みたい(笑)。これ、あなた普通は救われませんねと(笑)。ちょっと無理ですねと。こんな生き方してきたんですかと。あり得ないと、もう。三悪趣決定と。もう駄目ですねと。ほんと同情しますよと。しかし、実はいいものがあるんです(笑)。
(一同笑)
ね(笑)。あなた、今のままではもう誰も救うことはできないが、実は、そんなあなたでも(笑)、
(一同笑)
救われるいいものがあるんです。まさに真理の営業マンだね。これさえあれば、たちまちにして(笑)、あなたの悪業は浄化されます、と。あなたは、『入菩提行論』に書いてあるように、あなたはこの瞬間から、あんな世界の大悪人だったあなたが、みんなから菩薩様と言われるようになるんですよと。ね。神々もうらやむような神の祝福が受けられるんですよと。どうですか、っていう感じなんだね。
ほんとにそうなんです。でも問題は、それを、それがほんとに価値があるものだと理解し、受け取れるかどうかなんです。受け取ったならば、つまり問題ないです。受け取ったならば、ラーマクリシュナが言うように、もうその瞬間から、はっきり言うと、罪のことなんて考えなくていいと。つまり自分が過去にどんなことをやってようが、まあ、もちろん懺悔はする必要はあるけども、懺悔をしっかりしたらもう忘れていいです。だってもう変わったんだから。
で、もし変わってないんだったら、自分の心がまだ菩提心やあるいは神へのバクティとかにも対してまだあやふやなときっていうのは、これは逆に考えた方がいい。つまり、このままでいいのかと。ね。わたしが本気で菩提心や神へのバクティを完全に自分の中に確立しなかったならば、わたしは過去に積んだこの大いなる悪業に飲み込まれてしまうと。破滅しかないと。だからしっかりとそれを考えて、菩提心を持つと。あるいは、神のしもべとして生きることを決意すると。で、もう一回言うけども、そう思ったならば、決意したならば、もう忘れていいです、過去の悪業はね。
でもそうじゃなくて、非常に甘く考え、「ああ、わたしはそんなに悪業積んでないから、まだ菩提心とか持つ必要はないかな」って思いがあるとしたら、それは間違いなので、それはちゃんと考えた方がいいね。自分こそが大悪人なんだと。あるいは自分こそがこの教えに当てはまる人なんだと。自分こそが、菩提心を持つことによって癒されなきゃいけない、悪業から救われなきゃいけない人なんだっていうふうに、しっかりと考えたらいいね。
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