解説「菩薩の生き方」第六回(2)
【本文】
他のすべての善は、芭蕉樹のように、実を与えて消滅してしまう。しかし、菩提心の樹は、常に実を結んで消滅しない。ただ豊かに実るだけである。
【解説】
菩提心以外の善は、実を生じると消滅する。菩提心は、常に実を結んで消滅しない。これは何を意味しているのでしょうか。
ちょっと言葉の整理をしてみましょう。
菩提心とは、「衆生を救うために、覚醒を得るぞという勇猛な決意」。
善とは、自分や他人を幸福にする一切の行為。
ということは、善と呼ばれるものの中には、菩提心を含むものと、含まないものがあるといえるでしょう。
たとえば人に優しくする。これは善です。
この善によって、この人は逆に「人に優しくされる」という果報が生じます。
しかし普通はこれで終わりです。
エゴによっても、善を積むことはできます。
菩提心なしに、カルマの法則を学び、良いカルマを積めば、良い果報が生じ、幸福になります。
しかし幸福になると同時に、その良いカルマは消えます。
なぜなら自分が幸福になることで、カルマ(行為)の目的は達成されたからです。
しかし菩提心というのは、もともと目的が「自分が幸福になりたい」ではなくて、「他者を幸福にしたい」なのです。
しかもその幸福の定義は、究極的には「他者を解脱させること」なのです。
しかもその他者という範疇に偏りがあってはいけませんから、「すべての衆生を解脱させること」が、菩提心の目指すところとなります。
しかし自分が煩悩と苦悩にまみれた凡夫であっては、とても他者を解脱させることなどできないので、まず自分が完全な覚醒を得ようと考えます。
こうして菩提心を持つ者は、「他者の幸福」と、「それを達成するための自分の覚醒」のことを、常に気にかけるようになります。
この土台の上に積まれた善は、消滅しないのです。
なぜなら、目的が「自己の幸福」にはないので、そこで菩提心を持つことによる心の安定や、さまざまな幸福が生じたとしても、それは菩提心に付属する「当たり前のこと」であって、菩提心の究極の目的である「すべての他者が解脱すること」が達成されるまで、菩提心の善は増大し続けることはあっても、消滅はしないのです。
はい。これはまあ、読んだとおりですね。この解説は、非常にシンプルに、わかりやすく――まあ、わたしが書いたんだけど(笑)、わかりやすく書かれているので、あまりこれ以上解説はいらないかもしれませんね(笑)。
(一同笑)
そうなるとこの勉強会自体が意味がよくわからなくなってくるんだけど(笑)。まあ、ちょっとだけ言うと、つまり、すべてはカルマであると。で、カルマっていうのは、つまり無常なんだね。無常っていうのは、善を積んで、で、幸福になり、それで終わり。悪をなし、不幸になり、それで終わり。で、この、われわれのカルマによって善をなし、カルマによって悪をなし、それが返ってきて幸せになり、不幸になり。で、この、あるものが因っていう種を作って、で、芽を出し、花を咲かせ、終わると。で、その中でまた次の因を作る行為があり――この繰り返しなわけですね。だから一個一個を見ると、その一個一個はほんとに無常であって。だから喜びも苦しみも当然無常なわけだね。喜びも、なんていうかな、永続する喜びはない。カルマの因が尽きれば終わってしまう。苦しみもそうなんだけどね。
苦しみも、皆さん、苦しみが生じたとき――苦しみが生じたときの心の解決法っていろいろあると思います。一つ例えば、一番いいのは、一番優れているのはもちろん、おまかせ。まあ、それは肉体的にしろ精神的にしろ苦しみが生じたときに、ああ、これは神の愛なんだと。わたしには――ギリシュが自分の修行のね、権利をグルに与えたっていうのと同じで、わたしの幸せの、わたしがどういうふうに悟りに向かうかの、その選択っていうのは全部グルに預けてあると。だからわたしにどんな不幸が来ようが、何が来ようが、それはグルの愛であって、神の愛であって、それを完全にわたしは信じてると。だから全く苦しくないんだっていう考え方。――まあ、苦しくないっていうのは、表面的に苦しかったとしても、それはわたしにとってはなんの不満もないんだっていう考え方。これはとても優秀ですね。
あるいはもちろん、そうですね、別パターンとしては、放棄、あるいは解脱のヨーガ的な考え方で言うならば、わたしは真我であると。ね。この肉体や、あるいは精神っていうのは全部かりそめのものであって、苦しみなどわたしは本来感じるわけがない――これはラージャヨーガ、もしくはジュニャーナヨーガ的な発想だね。
あるいは例えば菩薩道になった場合、わたしが苦しむことによって、みんなが幸せになればいいと。自分が苦しんでるときに、「苦しみ嫌だ!」じゃなくて、もっと苦しみ来いと。ね。こんなもんじゃ甘いと、逆に考えるんだね。で、自分はほんとは苦しくてしょうがないんだけど、そういうときにこそ、もっともっと来てくださいと。これによってみんなの苦しみが減るならば、わたしは本望ですと考える。これは菩薩的な考え方ですね。
まあ、このようにいろんな考え方がある。で、こういうのも、いろいろ考えても、なかなか駄目なときがあるよね。そのときの最後の手段。最後の手段は――まあ最後の手段っていうか、最後の方の手段ね(笑)。
(一同笑)
最後の方の手段としては、今言った、「すべては無常である」と。うん。つまり、喜びもそうであるのと同じように、苦しみも、決して永続する苦しみはない。これは特に皆さんの場合、皆さんもちろん子供じゃないから、何十年も生きてるわけだから、自分の人生振り返るとわかるよね。自分の人生で確かに苦しい時期ってあったかもしれない。でも決して永続しないよね。ずーっとそれが続くっていうことはあり得ない。つまり四季が変わるように、あるいは太陽が沈んでまた昇るように、必ずカルマの流れってあるんだね。で、それを自分に言い聞かせる。これは、さっき言った菩薩とかおまかせとか、「真我!」とかに比べたら、ちょっと情けない(笑)。情けないけども、もちろん耐えられないよりはいい。耐えられなくて悪業犯しちゃうとか、耐えられなくて心がただ悲惨な状態になるよりはね。これでもし変えられるんだったらいいよね。すべて終わるんだと。すべては無常なんだと。苦しみさえも無常なんだと。つまりその苦しみの因が尽きたらそれは終わるんだ、ということを自分に言い聞かせると。これは最後の方の手段ね(笑)。
「最後の方の」って言ったのは、つまり最後の方はもう、なんていうかな、もういろんなことをやるしかないから。つまり菩提心でも駄目、バクティでも駄目、あるいはジュニャーナヨーガでも駄目で、もう本当に苦しみから逃げ出したいっていうときは、もうどんなことしてでもいいから耐えると。もうお釈迦様が言うように、歯を食いしばれと。ね(笑)。歯を食いしばってもいい。あるいはもうほんとに、もうひたすらマントラ唱えるとか(笑)。なんでもかまわない。何やってもいいんだけども。
もう一回言うけども、まあ最後の方の手段としては、「すべては無常である」と見る考え方もある。でもこれは事実なんだよね。喜びも苦しみも決して永続はしない。四季の流れのようにどんどん移り変わると。
はい。だからその善っていわれるもの、つまり善いこと、で、その善いことの果報、この流れもすべて、ここに書かれてるように、花や実を付けたらそれが終わってしまうように、それで終わりになるんだけども、しかし菩提心っていうのはそうじゃないんだと。永続するんだと。永続するっていうのは、ここに書いてあるように、その菩提心の果報、菩提心っていう一つの、まあ植物に例えたとして、それが最終的な実を付けるっていうことは、これは完全なる衆生の救済にしかないからね。いつも言うように、まあ、言ってみればこの輪廻で苦しむすべての魂が悟りに目覚める、これが菩提心のゴールなので。だから菩提心は、増大することこそあれ、その菩提心あるいは菩提心から生じるいろんなものっていうのは、衰退したり消滅することはないんだね。
今、「菩提心から生じるいろんなもの」って言ったのは、もちろん智慧とか、あるいは皆さんの力とかもあるわけだけど、それ以前に、まず非常に幸せになります。当然ね。菩提心によって幸せになる。もちろんその幸せっていうのは物質的なものじゃない。われわれの心が、つまり昨日までほんとに自分のことしか頭になくて、人のこと憎んでばっかりいた人が、ちょっと人の幸せを考えるようになったら、やっぱりちょっと心が広がって、心がちょっと幸せになる。本人がね。で、この流れ。このベクトルがずーっと続くんだね。完成するまで。あるいはすべての衆生が救われるまで、ずーっと続く。で、もちろん、その流れでいったならば、その最終段階、つまり菩薩の最終段階っていうのは、いつも言ってるようにすべての魂の救済ですからね。だからラーマクリシュナの弟子たちも言ってるように、ニルヴァーナなどはもうほんとに話にならない。自分がニルヴァーナに入るとかいうのはもうほんとに、幼稚園みたいな話(笑)。そんなところには全く興味がない。うん。
じゃなくて――もちろんね、まずそのプロセスとしては、これもラーマクリシュナが言ってるように――ラーマクリシュナの素晴らしい言葉があるよね。たった一人でも、この生でね、たった一人でも救えるとしたら、それは素晴らしいことだと。わたしはもしたった一人でも救えるならば、そのためにわたしは、わたし自身が二百回でも犬に生まれたってもいい、と。例えば誰か一人を救うために自分は二百回犬に生まれ変わると。うん。なんか合理的に考えると、それはもったいないじゃないかと考える人もいるかもしれない。でもそんなことはない。自分が二百回犬に生まれ変わることで、一人の人でも例えば覚醒させられるんだったら、それは素晴らしいことだと。こういう地道な全力の菩薩行を、まあ、菩薩は行なうわけですね。
で、そのゴールっていうのは、もう一回言うけども、すべての魂が覚醒しましたと。つまりこれが菩薩の心がどんどんどんどん、幸せっていうかな、解放というか、至福感を増していって、その最終段階でそうなるわけだから、もうそのときの喜びっていうのは計り知れないと。うん。もう何にも代えられない最高の至福が、最終段階で待ってるわけだね。で、もう一回言うけども、そこに至るまでの道自体は、どんどんその増大の道であって。その菩提心の、なんていうかな、果報とか流れとかエネルギーが、あるところで尽きるとか、そういうことはあり得ないんだっていうことですね。
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