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「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第二回(10)

 はい。「揚げ足取り、アラ探し」。はい、これもさっきの、まあ嫉妬であるとか、あるいは他者の罵倒中傷とかにも関わってくるけども、その自分の地位を確保したい、あるいは自分のさまざまな執着によって、あるいはさまざまな怒りによって、なんていうかな、なんとか目の前の相手を蹴落としたい、あるいは悪い状態に陥れたいというわれわれの中の悪い習性があるわけですね。で、それも念正智してちゃんとその抑えてたり、あるいは分解すればいいんですけども、これも放っとくと一瞬の怒りによって、そこに心が集中してしまう場合がある。「さあ、いかにこいつのあら探しをしてやろうか?」と。まるでそれが本当の勝利のように思えてくるんだね。
 「くそ、こいつ、こうやって――いかにこいつの、その悪いところを突いてやろうか?」――うん。あの、世俗っていうか現世においてはそういうののオンパレードだからさ、あの、なかなか難しいよね。特に仕事によっては、それが仕事の人もいるよね(笑)。その、相手とのその、いろんなやりとりによって、相手をいかに蹴落とすかみたいなのも――つまりそういうので社会が成り立っているから、われわれはそういう教育をされてきたから、なかなか難しいところがある。
 でもこれも、そのようなものにはまってしまうと、われわれの心は神から遠ざかり、あるいは、なんていうかな――こういう、この揚げ足取りとか、あるいはアラ探しとか、まああるいは不必要な論争とかもそうだけど、一見本人は悪気がない場合が多いんだね。悪気がないっていうか、正しいことをやっているような気持ちの場合もある。その論争的なやりとりがね。うん。自分は真理の実践者であると。
 まあ例えばネットとかのさ、そういうのを見てても分かるよね。仏教とかいろんな宗教的なそういうコミュニティとかを見ると、もう本当にみんな罵倒し合っていると。でも、本人たちは別にその、自分たちを悪いとは思っていない。うん。自分たちはある意味、聖なる修行者って感じで、罵倒しあっているわけだね(笑)。うん。だからそれは、そういうなんか落とし穴があるんだね。われわれの中にある、その、なんていうかな、他者を否定することによって、あるいは他者を排斥することによって、自分を確立したいっていう思い。これにわれわれが巻き込まれると、なんとなく正しいことをやっているような気持ちでいながら、いつの間にか神から外れています。あるいは真理から、かなり外れたところにきてしまう。だからこれもしっかりと念正智しなきゃいけないところですね。

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