解説「菩薩の生き方」第二回(1)
2011年10月23日
解説「菩薩の生き方」第二回
【本文】
この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的(すなわち解脱)は達成せられる。もし、ここで(真の幸福の因である)善福を認識しなかったら、どうして再び(このような幸福が)めぐり来よう。
【解説】
これは仏教の基本である、「人に生まれることの稀有さ」の強調です。
基本的なことですが、もう一度簡単に説明しましょう。
我々は、解脱しない限り、地獄・動物・餓鬼・人間・天の五つの世界を輪廻し続けます。六道輪廻という場合は、最後の天を、阿修羅と天に分け、六道とします。
輪廻するというのはつまり、死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わり、これを永遠に繰り返すということです。解脱しない限り、終われないということです。
お釈迦様は輪廻転生を説かなかったとか、あるともないとも言わなかったとか言う人がたまにいますが、そんなことはありません。お釈迦様の実際の言葉に最も近い内容を探るには、現存する原始仏典を探るしかないわけですが、少なくとも原始仏典には、輪廻転生の話はたくさん出てきます。というより、輪廻転生があることが大前提となって、教義が展開されています。また、解脱者が身につける神通力の一つに「宿明通」という、あまたの過去世を思い出す能力があるということも、お釈迦様はお説きになっています。
「お釈迦様は輪廻を方便として説いたのだ」などという推測をするのは自由ですが、推測ではなくてお釈迦様自身の言葉に最も近いと思われる経典をそのまま素直に受け取るならば、輪廻転生は実在すると考えるのが自然ではないでしょうか。
さて、この六道輪廻のうち、下の三つの世界(地獄・動物・餓鬼)は「三悪趣」と呼ばれ、大変な苦痛に満ちた世界です。人間以上の世界は善趣といって、一応幸福な世界なのですが、自分の人生を振り返れば、人間界に生まれても、幸福なことばかりではないことはお分かりでしょう。
天に生まれたらどうでしょうか? 私は天こそ、最悪の輪廻の苦痛の世界だと思いますね。なぜなら、天の神も死ぬからです。天はすばらしい歓喜と幸福に満ちた世界です。しかし死ぬのです。そして死んだらほとんど、天より低い世界に生まれ変わります。天から地獄に生まれ変わることも、稀ではありません。
我々の幸福や苦しみというのは、相対的なものです。つまり以前の経験と今の経験の比較や、自分と他人の比較によって、苦楽を感じるわけですね。ということは、たとえば動物から地獄に落ちるとか、人間から地獄に落ちるのに比べて、天から地獄に落ちるというのは、これ以上にない苦痛ということになるでしょう。天での快楽が大きければ大きいほど、その後の地獄の苦痛も大きく感じられます。だから「天こそ最悪の苦痛の世界」と書いたのです。
そして確率からいうと、我々はほとんど、地獄・動物・餓鬼の三悪趣を輪廻し続け、本当にたまに、人間や天に生まれるだけだ、といわれます。これは脅しではなくて、論理的に正しいことです。なぜなら、すべての現象の原因は自己の善悪の行為(カルマ)だからです。良い行ないによって幸福になる。悪い行ないによって不幸になる。そしてその良いカルマを多く持っていれば良い世界に生まれるし、悪いカルマを多く持っていれば苦しい世界に生まれるということです。
そして地獄・動物・餓鬼の世界では、良いカルマを積むことはほとんどできません。
天の神はどうでしょうか? 実際は天というのは、この欲界の輪廻を超えた、もっと高い天もあるのですが、ここでは欲界の天のことを指しています。この欲天の神は、無智をその性質としているので、あまりの快楽や幸福に溺れ、修行もせず、徳も積まず、ただ功徳を浪費するだけなのです。
そしてこの輪廻の中で唯一、まじめに修行し、徳を積むチャンスがあるのが、この人間界だというのです。
人間界は、地獄ほど苦しくないので、真理を探究する余裕があります。動物ほど無智ではないので、ものを考えることができます。餓鬼ほど貪りが強くないので、他者への善を行なうことができます。天ほど楽しくないので、人生に溺れることがありません。
だから人間に生まれたときこそ、チャンスなのです。徳を積み、修行し、解脱し、この輪廻から抜け出る唯一のチャンスなのです。
そして、ここでシャーンティデーヴァが言っていることを、もう少し噛み砕いてまとめて書きますと、こういうことです。
「人間界こそが、唯一、徳を積むことができ、修行ができ、解脱することができる世界である。
しかしこの人間界に生まれるチャンスは、極めて少ない。
いま私は、その稀有なチャンスを得ている。それなのに今、徳を積んだり修行をしようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというのだ?
ものすごい低い確率でやっとめぐってきた今のこのチャンスを逃したら、再び人間界に生まれ、解脱のチャンスにめぐり合うのは、至難の業だよ。次はいつになるかわからないよ。また、苦しみの輪廻を永い間さまよわなければならないよ。」
はい、これはね、いつも出てくる、仏教の一番最初の方でわれわれが認識しなきゃいけない、人間に生まれることの稀有さっていう話ね。
これはまあ、まさに読んだとおりですが、われわれが普通、ね、死んだら、輪廻転生してしまいますよと。つまり、したくなくてもしてしまう。ね。どこかに生まれ変わってしまう。しかもその確率は低い世界ほど大きいですよと。で、人間界に生まれる確率は非常に少ない。しかし修行できる世界は人間界しかないと。
これはね、ヒンドゥー教でも、例えばシャンカラとかもそういうことを言っていて、まあ仏教、ヒンドゥー教、共通の認識ですね。よって、今こそがチャンスなのだと考えて、すべてを捨てて修行に邁進しなきゃ、いつやるんだという話ね。
ただね、ちょっとぶっちゃけてっていうか、これ言ってしまうと全部吹っ飛んじゃうけども、真のバクティの道においては、輪廻転生なんかどうでもいい。だからね、われわれは、われわれっていうか皆さんは、なんていうかな、皆さんはやっぱり、いつも言ってるけど、徳があると思う。とてもね。なぜ徳があるかっていうと、こんだけそのバクティのエッセンス、それから仏教のエッセンス、それからヨーガのエッセンスを学べる皆さんっていうのは、とても徳がある。で、ここでいうエッセンスっていうのは、バクティのエッセンス、それはさっき言ったようなことも含めてね、皆さんが日々学んでることがある。それから仏教のエッセンスっていうのもいろいろあると。で、その仏教のエッセンスの、ここで一番打ち出してるものとして、例えば『入菩提行論』がある。あるいは、まあ同じようなパターンの別のものとしては『心の訓練』とかもあるね。で、こういったね、例えば『入菩提行論』とか『心の訓練』とかっていうのはまさに、非常に実質的な、つまり机上の空論ではない、なんていうかな、確実にわれわれの心を変えていく、まあ、秘儀的なものなんですね。で、バクティっていうのは、バクティをもし皆さんがほんとの意味で――『入菩提行論』も半分はバクティみたいなものなんですが、そのバクティの部分を皆さんがほんとに高めたら、一切の論理も吹っ飛ぶっていうか。
例えばね、例を挙げると、ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュの生涯の話でね、最後の方で、ギリシュが病気になっちゃって、まあでもそれは、わたしがね、師ラーマクリシュナから、ね、――ギリシュは師ラーマクリシュナに自分の、「代理人の権限」っていうわけですけども、わたしが幸せになること、あるいは悟りを得ること、あるいは、ね、ほんとに神に覚醒していくことのやり方っていうかな、それを全部、代理人として師に預けてしまったと。だからわたしに起きる幸不幸は全部師からのたまものであると。だからわたしはそれに対して何もどうこうすることができない。だから病気になったときも、ほんとはわたしが心から師に祈れば、こんな病気なんて吹っ飛ぶと。吹っ飛ぶけども、わたしにはそんなことできないんだ、っていうことを、まあ、言ってたわけですね。
そして病気がどんどん重くなって、もうすぐ死ぬっていうときに、まあ、やっぱりもうすぐ死ぬから、ちょっとギリシュは死後の世界のことを考えだしちゃったんだね。「あれ? 人間って死んだらどうなるのかな?」と。「ヒンドゥー教でもいろいろいわれてるけども、いったいどうなるんだろう? わたしの魂はどうなっていくんだろう?」と。ね。「このわたしっていう存在は、死と、肉体の崩壊とともに、いったいどうなっていくんだろう?」っていろいろ考えてたらしいんだね。そしたらちょうどそこに、『ラーマクリシュナの福音』の著者であるMね、マヘンドラナート・グプタが訪ねてきた。訪ねてきて――あのMっていう人はいつも、Mがやって来ると、いつもラーマクリシュナの話になるらしいんだね。スタートがなんであれ、例えばスタートが「今日のお供物おいしかったね」とかね、あるいは「昨日雨だったね」っていう話だったとしても、いつの間にか全部ラーマクリシュナの話になると。で、Mも病気のギリシュをお見舞いに来て、で、さっそくラーマクリシュナの話が始まったわけだね(笑)。そしたらそこで、ギリシュがちょっと顔色が変わって、で、Mに対して、「ちょっと君にお願いがある」と。「ちょっとそこの靴を取ってくれ」と。何かと思ったらその靴で――「これは真剣なお願いだ」と。「これは冗談ではなく真剣なお願いなんだが、その靴でわたしの頭をひっぱたいてくれ」って言ったんだね(笑)。で、Mが笑って、「そんなことをしなきゃいけない理由は何か教えてくれ」って言った(笑)。そしたらギリシュが言うには、「わたしは、主の恩寵を受け、わたしの胸には常に師ラーマクリシュナが住んでいらっしゃる」と。「にもかかわらずわたしは、いまだに死後どうなるかとか、そんなことを考えてる」と。「だからわたしは靴でひっぱたかれるのにふさわしい人間なんだ」って言うんだね。
つまり、バクティの道を行く者にとっては、「死後どうなるのかな?」――そんなのどうでもいいと。ただわたしがすべてを主に預けられるか、あるいは主が完全に自分を守ってくださってるっていう確信があれば、それでいいんだね。「こうなったらどうなんのかな?」「ああなったらどうなんのかな?」っていうのは全くどうでもいいんだと。これがバクティの世界なんです。
ただ、ちょっと話を戻しますよ。じゃあわれわれはどうしなきゃいけないのか。われわれは完全に、二足のわらじで行くべきです。つまり、今言ったような素晴らしい、全部の論理が吹っ飛ぶようなバクティの世界を高めると同時に、同時にこの『入菩提行論』で説かれるような、きめ細やかなダルマっていうかな、きめ細やかな、ある意味合理的なダルマの獲得っていうかな、それは同時にしなきゃいけない。
っていうのは、そうですね、時代が時代ならバクティ一本でいけたかもしれないんだけど、やっぱりね、われわれの心はまだまだエゴが強いので、バクティ一本で行こうとすると、やっぱり似非バクティになりがちなんですね。なかなかわれわれの心が純粋化した状態をずーっと保てるっていうのは、まあ現実問題として非常に難しい。だからわれわれは――そうじゃない、われわれの悲しい現実っていうかな、つまりわれわれの純粋な心を引きずり下ろすエゴの罠みたいなのがいっぱいあるわけですね。それを、この偉大な『入菩提行論』に代表されるようなダルマで打ち砕いていかなきゃいけない。
だから逆の言い方するとですよ、この『入菩提行論』とかによって打ち砕く意味、打ち砕く狙いは、さっき言った、論理を超えたバクティに到達するためです。つまり論理を超えたバクティに到達するために、まずは論理によって、自分のエゴをなんとか打ち砕かなきゃいけない。
でも、いつもそれをする必要はないよ。いつもそれをする必要はないっていうのは、皆さんが調子いいとき、心が純粋なときは、さっきのギリシュみたいな心でいてください。はっきり言うと、だから純粋なときはこれは必要ありません。今言った輪廻の話は必要ありません。皆さんが本当に心が純粋なときは、「ん? 輪廻? どうでもいいじゃないか」と(笑)。ね(笑)。「わたしの心には常に主がいらっしゃる」と。あるいは「わたしは常に主にすべてを預けてる」と。で、似非バクティになっちゃいけないっていうのは、「預けてる」とか言いながら、全然修行しないと。あるいは全然教えを守らないと。あるいは全然、例えば苦しみから逃げるし、苦しみを嫌悪すると。これは駄目ですね。だから本当に自分を完全に預けた状態、あるいは捧げた状態っていうのに自信があって、で、なんの不安もないと。なんの恐怖もないと。このような状態だったならば、教えさえいらなくなるんです。でも何度も言うけども、そういう状況にわれわれが行くことは難しいし、まあ仮に行けたとしても、持続するのは、特にこの現代では難しい。よって、きめ細やかな念正智によって、自分のそのいい状態、その中心点にある状態を阻害してるものを、もう日々打ち砕き続かなきゃいけないんだね。
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