解説「菩薩の生き方」第二十回(5)

はい。四念処ね。二番目が感覚。感覚は――感覚もいかに無常であり苦であり実体がないかと。
感覚っていうのは、もういつも言ってるように、この視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の感覚ね。で、この感覚もわれわれは――いつも言うように、この感覚っていうのは、分かると思うけど、苦楽両方を有してると。当たり前だけどね。で、その楽の方にばっかりわれわれは常に目を向けてると。だから感覚っていうものはいいものであるっていうとらわれがあると。あるいは感覚こそ、つまり感覚によって経験されることこそが、まあわたしであるっていうかな、そういう発想もあると。実際そういう哲学っていうかそういう考え方ありますからね。つまり「わたしというのは何か」と。「それはこの五感で経験すること、経験されること、これがわたしである」っていう考えもある。でもそれはそうではない。この五感っていうのはもう――まず、セオリーでは「感覚は苦なり」って説くわけだね。これも何度も言ってるから、ちょっと時間がないので端折るけど、実際には感覚は、今言ったように楽と苦しみどっちもあります。でも何度も言うけど、比べると圧倒的に苦です。うん。苦の方が多い。
これも何度も同じこと言ってるけど、例えば触覚が一番分かりやすいけどね。触覚における、例えば最大の至福っていうか快楽として、例えばセックスがあるとしてね。じゃあ同じその触覚の、例えば性器を切り刻まれたとしたら――まあ体でもいいけどね、最悪ですよね。これ、釣り合わないでしょ? うん。高々性的な喜びと、この肉体を切り刻まれる、あるいは焼かれる苦しみっていうのは釣り合わない。これはだから思考訓練――何度か言ってるけど、思考訓練すると分かる。例えばそういう店があったら入らないでしょ? 店、つまり風俗の店があって、「はい、一時間一万円です」と。「最初の三十分はあなたの望む最高の異性とセックスができます。後半三十分は、申し訳ないですが、体をちょっと固定させてもらって、昔の中国の拷問みたいにちょっとずつ切り裂いていきますよ」と。
皆さんはそういう本を読まない方がいいけども、昔わたし拷問の本とか読んで後悔したことがあって(笑)。
(一同笑)
「心がけがれた」と(笑)。「ほんとに世界の拷問っていうのは大変だ」と(笑)。もうほんとに――あ、読まないでと言いながらこうやってみんなに言ってることがあれなんだけど(笑)。ちょっとずつ体を切り刻んでいくとかね。あるいは逆さに――日本でも昔あったのかな。ちょっと日本か西洋か忘れたけど、逆さにして、股からノコギリで切っていくとかね。わけ分かんないですよね(笑)。で、気絶したらバサーッてまた水をかけて目覚めさせて。もう苦しみをあえて与える。もしくは中国とかでも皮をうまく剥いでいくんだね。生きながらですよ。そういうのがたくさんあると。で、そういうのをやりますよと。三十分間ね。この店があったら普通入らないですよね(笑)。入る人がいたらよほど馬鹿か、勇気がある人。馬鹿な勇気だけどね。つまり、釣り合わないんです。それとそれって絶対釣り合わないでしょと。うん。この快楽に対したらこれくらいの苦痛だったら耐えられるけど、でも高々その、ちょっとしたね、数十分の性的喜びだけで、ね、体を切り刻まれるとか。例えば男性だったら分かるかもしれないけどさ、同じ性器を使い、その性器で喜びを味わい――「はい、味わいましたね。その報いとして、じゃあ今度性器を切り刻みますよ」とかね(笑)、「じゃあ睾丸つぶさせてもらいます」とかね(笑)、もう考えるだけで嫌でしょ(笑)。ね。全く釣り合いませんと。で、これが今言ったその最も極端な例。触覚的なものが分かりやすいわけだけど、実際にはすべてそうなんだね。
すべてこの世の、これは精神的なものも含め、この世で経験できる――もちろんさ、精神的なものはわれわれが悟りや解脱を得れば、その至福は計り知れない。けど、この世で味わう、普通の人が味わう感覚的喜び、あるいは精神的喜び、これはこの世でわれわれが味わう可能性のある感覚的苦しみ、そして精神的苦しみには全く釣り合いません。これがこの感覚の正体なんだね。だからお釈迦様は「受は苦なり」「感覚は苦なり」って言ってる。
普通、馬鹿な現代人が聞いたら「お釈迦様はよく分かんない」って思うかもしれない。わたしも小さいころ、読んでよく分かんなかったけど。「感覚は苦である。」「え、だって楽しいこともあるじゃん」――確かに楽しいこともある。でも総体として見ると、それは苦としか言いようがない。
あるいは別の考え、パターンでいうと、すべては相対的ですからね。相対的だから、当然ある一つの感覚的喜びが、ある人にとっては苦しみと感じられる場合もあるし、あるいはあるレベルのものに慣れてしまうと、以前の喜びが苦だと感じると。例えば、そうだな、粗末な、皆さんみたいに質素な食事に慣れてると、質素な何かいいものが出てきたとして、「ああ、本当においしい」って感じるかもしれない。でもぜいたくな食事に慣れてると、「今日の食事なんですか、これは」ってなるかもしれないよね。お嬢様とかね(笑)。イメージだけど(笑)。とにかくその同じものがその人の認識によって、同じ感覚が全然違うものになると。匂いとか味覚とかっていうのは一番そういう意味では、いつも言うように最もあやふやですよね。匂いなんかまさにそうだけどね。
これも何度も同じこと言ってるけど、女性とかすごく匂いに敏感だからさ。わたしは特に匂いにあまり、鈍感っていうか頓着がない方だったから、よく「ああ、ここすごく臭くて!」とか言われると、「え? どこが?」と(笑)。「これがどうしたの?」って感じがあるわけだけど。でも匂いって一番、実体がないっていうかさ、共感する場合もあるけどね、共感しづらい部分もあるっていうか。ほんとに例えばある人が「いい匂いね」とか「臭いね」とか言ってるときに、ほんとにおれが嗅いでるこれと同じものを共感してるのか分かんないところがあるよね。なんかさ、観念的に何かを持ち出せば共感できるかもしれない。「これさ、あそこのあの花と同じ匂いだよね」「ああ、ほんとほんと、いい匂いだね」――これはそうなるかもしれないよね。でもそうじゃなくてあいまいな何か匂いがあって、それを嗅いで、みんながみんな同じことを感じるとは思えない。味覚なんかもまさにそうだけどね。
はい。だから感覚ってすべてあやふやであって実体がない。そして、そこには多くの苦しみを含んでいると。
でもこれも、道具としてこの世で生きていく、もしくは使命を果たす上では当然使わなきゃいけないから、素晴らしい道具なんだけど、しかしその程度に考えなきゃいけない。
この感覚にとらわれ過ぎ、感覚の快楽を貪ろうと執着し過ぎると、われわれはまた――このね、五感っていうのは粗雑な世界の五感ですから、粗雑な五感の世界に縛り付けられ、また何度も何度もこの苦しみの世界を輪廻しなきゃいけない。
これもさっきの、ちょっと高いレベルの話でいうと、色界、つまり高い霊的世界にはより精妙な感覚があります。これは肯定されるんですね。段階的にはですけど。段階的にはっていうのは、ほんとに解脱するには肯定しちゃ駄目だけど、第一段階としては、この粗雑な世界ではなくて、高い世界の五感っていうのはもっと素晴らしいと。高い世界の五感っていうのは、ほんとに喜びしかないんだと。だからわれわれはこんな低い世界の五感は捨てなきゃいけない、とらわれてはいけないんだっていう発想で、この世との絆を断っていく瞑想とかもあるわけだけど。
はい。これもだから、ちょっと話を戻すと、念、四念処として、普段から自分を、いろいろ生きながらね、観察して、感覚っていうのは無常であり、苦しみであり、そしてこの感覚の中にはわたしたちの本質は何もないんだと。すべてはただのデータからくる錯覚にすぎないということを分析し続けると。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第二十回(4) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第二十回(6)