解説「菩薩の生き方」第二十回(3)

はい、それから「不浄である」と。この肉体をリアルに観察すると、当然、この現在もお腹の中には多くの不浄物があると。腸には糞が詰まってると。膀胱には尿が詰まってると。あるいは血液、リンパ液、あるいはちょっと化膿してた場合は膿とかも詰まってると。ね。これらは全部不浄といわれるものであると。あるいは、もちろん精液やその他の――わたしもあんまり医学的なことは詳しくないけども、他のいろんな液体も詰まってると。で、それらをパッてここに置かれたり、あるいは体からバッて出たりしたら、それは不浄だと言われますよね。当然例えば糞尿は不浄であると。あるいは、われわれが気持ち悪くなって吐いちゃったと。これ不浄ですよね。いつも言うけども、これが不浄なんだったら、それを入れてる――というよりも、それを作り出してるこの体はやっぱり不浄ですよね。
一つの考え方としてさ、例えばこういった――これ何? ムース?――ムースにしろ、あるいはこのパクチーのお菓子にしろ、これ自体はもちろん不浄ではないよね。これ見ると、特にプラサードだし、あるいは一般的にも、例えば「ああ、きれいな料理ですね」と。「ああ、これはきれいな盛り付けをした素晴らしいデザートだ」とか、例えばなりますよね。それは「美しいしおいしい」と。「なんて素晴らしい」と、それは称賛されると。フェイスブックとかに上げれば、「ほんとに素晴らしい料理ですね」って称賛されると。でもそのどんなに素晴らしい料理も、口に入れる寸前までです。一口入れたらもう不浄でしょ。ちょっと口に入れちゃって――口に入れる直前にね、「あ、わたしもちょうだい!」って言われるかもしれないけど、入れちゃったら「ああ、はい、いいよ」って(笑)。みんなもういらないでしょ(笑)? もういらないと。もういりませんと。「なんで?」と。「だってあなた口に入れたじゃない」(笑)。口に入れただけでですよ。まだ飲み込んでいない。入れて、まあ噛んだかもしれない。ちょっと噛みましたと。「まだ飲んでないからあげるよ」とか言ったら(笑)、それは嫌ですよね。つまり一瞬にして、どんなおいしい、素晴らしい料理も不浄物に変えてしまうすごい機械。これが肉体であると(笑)。もちろんそれは噛んだだけならまだしも、飲んで、そこで胃液や体液と混ざり、粘液と混ざり、もう胃でぐじゃぐじゃにされたもの。これはもうとんでもないよね。もうあり得ないでしょ。例えばさっきと同じで、「あなた、あれ食べちゃったの? わたしも食べたかった」「いいよ――オエーッ」って(笑)、あり得ないでしょ? でもさ、これさ、ちょっと、すごく感情か全くなくして、物理面でいえば、それはあり得るんですよ。だって口に入れて吐いたって、まだ――ちょっと粘液混ざっちゃってるけど(笑)、でも、なんていうかな、栄養面では別にまだ消化されてないから同じですよね。もしわれわれがなんの感情もないロボットだったらオッケーかもよ。「ググググ――Aさんが食いしん坊でちょっと食べちゃった」(笑)。
(一同笑)
「あれっ、サモサ全部食べちゃったの?」と。「わたしにもそれちょうだいよ」って誰か言ったとして、「いいですよ、オエーッ」ってやって。「ああ、まさに元のサモサと同じ栄養素がある」と。「ではいただこう」――これはあり得るかもしれないよね。でもそうはならないでしょ。つまり、それは不浄だってわれわれが認識してると。
で、それが腸にいけば、同じその素晴らしい食べ物だったものが、今度は糞となると。ね。われわれの排泄物に変わると。それはすごい、どんな美しいものも、最悪の不浄物に変えてしまう。これがわれわれの肉体であると。ということは、その肉体自体が不浄でないわけがないよね。どんなものも不浄に変えてしまうものであると。で、それでわれわれの体は詰まってると。
はい。で、こういうシビアな見方をしていくんだね。で、これはもちろん帰結としては、当然この肉体の執着から離れるためです。つまり、われわれはまず第一に――ちょっとヨーガ的な説明の方がしやすいわけだけど、ヨーガ的にいうと、われわれの本質は真我であると。一切から解放された真の本性があるはずであると。でもそれがいろんなものに間違ってとらわれてしまい、「わたしだ、わたしだ」って全く違うものに執着してると。で、その最たるもの、最も低いもので、かつ最も執着してるものが、この肉体であると。よって、まずこの肉体へのとらわれを薄めていかないと、悟りとか、解脱とか、あるいはこの輪廻から解放されることは全く無理であると。よって、繰り返すけど、日々徹底的に自分の肉体を観察し、あるいはそこから発展して他人の肉体も観察する。
そしてこの肉体っていうものがほんとに――もちろんさ、ここからどう考えていくかはその人の修行の道次第ですけどね。つまり、単にニルヴァーナに入りたかったから、もちろん徹底的に肉体を否定して、「全く肉体には意味がないんだ」と。「意味がないんだ」っていう感じでただ心の本性に集中すると。で、菩薩道とかバクティの場合は当然、もちろん肉体はもう完全に道具であると。うん。肉体はわたしではない。しかし、この世で仕事をするための、使命を果たすための道具であると。よって、もちろんヨーガ等である程度メンテナンスはして。メンテナンスはして、主の使命のために、あるいは人々を救うために、あるいは、そのために魂を磨くために――つまり肉体はわたしではないけども、肉体という機械を利用することで自分の魂を磨くことができると。それはいろんな意味でですよ。
例えば修行はもちろんそうだよね。修行も、例えばこの肉体があるからこそわれわれは蓮華座を組み、そして気を上げることができると。気を上げることによって、連動してわれわれの意識も上昇するんだと。あるいは肉体を使って呼吸法をすることでプラーナをコントロールすることができるとかね。つまり最も外側で、最も価値のないものではあるが、うまく利用すれば、われわれにとって素晴らしい恩恵を与えてくれるだろうと。
あるいは別パターンでいうと、肉体があるからこそわれわれは苦しいと。でもそれは肯定的に考えれば、それによってカルマを落とすことができる。われわれにもし地獄のカルマがあったら、肉体的苦痛を経験しなきゃいけない。あるいはほかのカルマでも、例えば肉体――これもちょっと簡潔に言うと、われわれのチャクラや、あるいは気道っていうものがあって、それらは、いろんなところで勉強してると思うけど――例えば大ざっぱにいうと、怒り――燃えるような怒りのカルマは右側の気道に出ますよ、とかね。あるいは冷たい、冷酷なカルマは左側に出ますよとか、あるいは――まあ、これも大ざっぱですけどね、ちょっと細かいことは言わないけど、こうこうこういう心のカルマは、例えば体のこの部分に出るかもしれない。あるいはこういう過去のカルマは体のこの臓器に出るかもしれない――いろんなかたちがあると。
今なんでちょっとあいまいに言ってるかっていうと、すごく難しい話なんだね。すごく、セオリーとして、例えばこの病気はこのカルマだって言えないところがあるから。大ざっぱにしか言えないんだけど。例えば、じゃあ例えば喉に出る場合ね。喉がなんか病気になったと。それは一つは口のカルマといえるかもしれないね。でもそうじゃないかもしれない。例えば口じゃなくて、もうちょっと精神的な、闘争のカルマかもしれない。阿修羅的カルマかもしれない。あるいは口のカルマといっても、口が悪かったかもしれないし、あるいはそうじゃなくて嘘をいっぱいついてたのかもしれない。でもいろんなかたちでわれわれのカルマが、この、まず霊的な、アストラル的なこの気道とかチャクラに影響を与え、で、それが表面化してこの肉体に影響を与えると。で、そこで肉体で、なんというかな、これは病気であるとか、あるいは病気じゃないけどもなんか原因不明の痛みが出るとか、そういうことを経験することによって、われわれは例えばカルマを落とすことができる。例えばね。
はい、このようなかたちでわれわれが、修行っていうものを人生の軸に置くならば、あるいは救済とかバクティっていうのを人生の軸に置くならば、当然この肉体っていうのは、われわれ自身の修行を進め、かつ人々を救ったりとかに使うための道具になるんだよ、ということができるね。しかしそれは、もちろんプラスアルファの考えであって、ベーシックには肉体っていうのはほんとに不浄であって、そして無常であって――無常っていうのは分かるよね? 無常っていうのはつまり、美しい人もどんどん顔が老いていくと。あるいは老いる前にも、ある場合には病気によって、ある場合にはケガによって、顔が変わってしまうかもしれない。あるいは体の素晴らしい運動能力を持ってたとしても、それもいろんなアクシデントで失われるかもしれない。そして、当然老いればどんどん体のすべての機能は弱まっていき、美しさもなくなっていき、っていうことをね、これもいろんなかたちで観察をすると。それによって、この肉体っていうのはほんとにとらわれる価値が全くないものなんだよということを、ひたすら考え続ける。
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